昼休みにTwitterを眺めていたら、こんなニュースが飛び込んできました。
38年もの歴史を持つゲームアワード「ゴールデンジョイスティックアワード」の、今年の受賞作。
それが発表されたようです。
例年通り、その一年での最高のゲームを表彰するほか、今年は特別な賞が設けられていたらしい。
その名も「Ultimate Game of All Time」
簡単に言えば「これまでで最も優れたゲーム」でしょうか。
なぜ今年はこんな賞があるのかと言えば、どうやら2021年は世界初の商業ゲーム「Computer Space」の誕生から50年の、節目の年であるから。
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この記念すべき年に、50年間のうちに世に出たゲームの中で、最も優れた作品を決めようというわけですね。
そうして選ばれたのが「ダークソウル」
日本のゲームを遊び育ったゲーム好きとして、これは嬉しいニュースです。
おめでとうございます。
しかし、嬉しいと同時に、ある違和感を覚えました。
歯がゆさと言うか、納得のいかない感じというか。
このニュースを、素直に喜べない自分がいたのです。
だって思いませんか?
「ダークソウル」に負けないくらい良いゲームは、世の中にたくさんあるのに…って。
でもTwitterには、祝福の声があふれています。
それどころか、祝えないヤツは捻くれている、拗らせている!という意見すら見かけました。
どうしてこの記念すべきニュースを、自分はみんなと同じように、素直に喜べないんだろう?
考えた結果、答えに行きつきました。
喜べない最大の理由。
それはこの「史上最高のゲーム」は、とても不公平で、不平等な決め方をされていたからです。
というか、世の中のすべてゲームアワードは、そもそも不公平かつ不平等が前提なんだと、気づいたんです。
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全てのゲームアワードは、不公平かつ不平等である
この世に存在するどんなゲームアワードも、全て例外なく、不公平かつ不平等であると思います。
それは今回選ばれた「 Ultimate Game of All Time 」も同じです。
にも関わらず、公平かつ、平等に選んだかのように報じられたこと。
これが私の違和感の正体であろうと思います。
これは今に始まった話ではありません。
不公平かつ不平等を前提に行われるのが、ゲームアワードです。
ゲームアワードは、全て不公平かつ不平等。
そう言い切れる理由は、2点あります。
・ゲームの出来の優劣は、比べようがないから
・ゲームアワードには「機会の平等」が無いから
一つずつ、説明していきましょう。
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ゲームを客観的に比べることは、絶対にできない
ゲームの出来の優劣を、客観的に比べることは、どう頑張ってもできません。
なぜなら、優劣を決める絶対的な基準が、ゲームには存在しないからです。
比べる人の主観によって、結果が変わります。
これはとても不公平です。
例をあげて話してみましょう。
ちょっと質問させてください。
あなたはスマブラとポケモン、どちらが優れたゲームであると思いますか?
誰もが納得できる理由をつけて、はっきり決めてください。
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この質問に答えられる方は、なかなかいないと思います。
特に「誰もが納得できる理由」が、とても難しい。
「ここがこうだから、ポケモンの方が優れている」だとか、「ここがこうだから、スマブラの方が完成度が高い」だとか、断言できるだけの理由は、まず見つからないでしょう。
なぜならゲームには、点数のような明確に優劣を示す基準が、存在しないからです。
ポケモンにはポケモンの。
スマブラにはスマブラの良いところがあり、それを数字などで表すことができません。
そのため、どっちが上だとか下だとかを、はっきりとした理由をつけて決めることが難しいのです。
ではどのように判断するかと言えば…最後には選ぶ人の好みや考え方…主観に委ねられます。
どっちが好みか…だとか、ゲームに何を求めているか…だとかで、一人一人判断が違います。
これは、とても不公平です。
なぜ主観に委ねると、不公平なのか?
たとえ話で、解説しましょう
もう一度、質問します。
A君とB君は、国語と数学のテストの合計点で、どちらが上か競うことにしました。
その結果
・A君は、国語は100点。数学は90点でした。
・B君は、国語は90点。数学は100点でした。
2人とも、合計の点数は同じ190点です。
さてこの勝負、どちらが勝ったといえるでしょうか?
ひっかけ問題などではありませんので、安心してください。
率直に、どっちが勝ったと思うかを決めてみてください。
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さて、この勝負…
当然、国語100点をとった、A君の勝ちです。
なぜなら私は、数学よりも国語の方が大切だと思うからです。
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……………は?
……………。
はい、とても不公平な決め方ですね。
普通に考えれば、勝負は引き分けです。
2人とも合計点は190点なのですから、勝ち負けはありません。
であるのに、「私は数学より国語の方が大事だと思っているから」なんて理由で勝ち負けを決めつけるのは、とても不公平ですよね。
どっちが大切か…なんていうのは、審査員の主観的な意見です。
私たちは、主観的な理由で何かの優劣を決めつけることを、不公平であると感じます。
それは、「主観的な理由=その人の個人的な考え方」だからです
国語と数学、どちらが大切か…というのは、人によって考え方が違います。
人によって違う考え=主観的な考えをもとに、優劣や勝敗を審査をすると、それはとても不公平に感じます。
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何かと何かの優劣を審査する時、見るべきなのは、どちらが優れているか。
どちらが良いものであるか…この点のみです。
審査員の主観…つまり好みや考え方は、そこに介入してはいけません。
なぜなら、審査員の主観を基準にしてしまうと、「どちらが優れているか」ではなく、「どちらが審査員好みであったか」までもが、審査のポイントになってしまうからです。
そうなると、優劣だけを比べたことになりません。
上記の例で言えば、A君もB君も同じ合計点を出したのに、最後には「審査員の主観」で勝負が決まっています。
純粋な能力の優劣だけを見れば引き分けなのに、審査員の主観というノイズが混ざっています。
これでは、正確に能力だけで競っているとは言えません。
大切なのは「どちらが優れているか?」です。
「審査員はどっちが好みか?」なんてものは、関係ありません。
いや、関係させてはいけません
それは、審査される側の能力には関係のない部分だからです。
また、審査員の主観とは、努力で変えられない点であるのも問題です。
上記の例なら、もし私が数学好きであったら、B君の勝利となってしまいます。
これでは“運”が勝負に介入してしまっています。
そして当然、運は努力では変えられません。
では、上記の例の場合、何を見て審査するべきなのでしょうか?
もちろん、点数です。
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テストの点数は、審査員の好みなど関係ありません。
本人たちの能力だけで決まります。
この点数だけを見て勝負を決めれば、正確に「テストで高い点数を取る能力」を競い合ったことになります。
例えば、フィギュアスケートや体操のような採点スポーツの世界でも、その点数のつけ方は厳密に定められています。
これもやはり、人の目…審査員の主観が介入する部分を、できるだけ少なくしようとしている証だと思います。
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ゲームに話を戻しましょう。
ゲームの優劣もやはり、テストやフィギュアスケートのように、点数のみで決めるべきです。
審査員の主観は、混ぜるべきではありません。
さて、最初にした質問に戻りましょう。
スマブラとポケモン、どちらが優れたゲームであると言えますか?
“主観を一切入れずに”採点し、その点数だけを見て、はっきり決めてください。
スマブラとポケモンを遊んだことがない方は、好きなゲームソフト2種類ならなんでもOKです。
採点し、点数だけで優劣を審査してみてください。
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………………は??
…………はい、無理です。
ゲームはテストのような、主観を廃した採点などしようがありません。
ゲームには正解…それどころか、答えるべき問題すらありません。
スマブラの良いところ、ポケモンの良いところがあり、それに点数などつけようがありません。
どうだったら何点だとか、こうだったら満点だとか、決めるための基準がありません。
だからゲームに点数はつけられない。
面白さは数字にできませんし、売り上げはゲームの良さとは関係ありません。
社会に与えた影響だとか、それこそ曖昧で、よく分からないものです。
これらに点数をつけることは、できない。
無理やりにでもグラフィックの美しさ、音楽の良さ、プレイ時間などで点数をつけることはできるかもしれません。
しかしいずれにせよ、どこにどれだけ配点するか?は、個人的な考え方を介入させざるを得ないでしょう。
レトロゲー風の表現をしたゲームが全て弾かれてしまうのも、大きな問題です。
では、世の様々なゲームアワードは、どうやってGOTYだとか、なんちゃらアワードだとかを審査し、決めているのでしょうか?
そう、不公平で曖昧で、審査される側の努力ではどうにもできない、審査員の主観で決められています。
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もちろん、何もかも主観で決めているわけではないでしょう。
多数の審査員により時間をかけて協議し、できるだけ公平に、特定の誰かの好みに偏らないように、最大限の努力をしていることは間違いありません。
しかし、そこに点数のような明確な基準がない以上、最後には主観…考え方や好みが必ず影響します。
いや、むしろ影響させなければ決めようがないのです。
だって点数がつけられないのですから。
ゲームとはそもそもが、比べようがないものなんです。
だから、全てのゲームアワードは不公平なのです。
「Ultimate Game of All Time」も同様です。
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明確な基準もないのに、50年分のゲームを比べることなど、できるはずがない。
比べられないものを、同じフィールドで無理やり比べている以上、そこには必ず主観…個人的な好みや立場があります。
主観が混ざる以上、それは不公平です。
「DARK SOULS」が素晴らしいゲームであるのは、間違いないと思います。
それでも、ポケモンより上だとか、マインクラフトより下だとかは、絶対に決められない。
人によって上だったり下だったりするのですから。
もし決めるとすれば、全人類一人一票の多数決くらいでしょうか。
だからこそDARK SOULSを史上最高のゲームだと判断したことに、違和感を抱いたのだと思います。
しかし、これは考えてみれば、どんなゲームアワードだってそうです。
今回は“史上最高”とことさらに範囲の広い賞であったため、余計に不公平さを感じたのかもしれません。
ゲームアワードには「機会の平等」がない
ゲームアワードは、不平等です。
なぜなら「機会の平等」が、与えられていないからです。
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その1年でもっとも優れたゲームだとか、あるいはそのジャンルの名作だとか、ましてや50年のオールタイムベストだとか。
これらには全て「機会の平等」がありません。
また例をあげましょう。
ある100m走の大会に、100人の選手がエントリーしました。
この中から、自己ベストが良い順に8人選出し、彼らだけの記録を取って1位を決めました。
さて、これは平等な大会だと言えるでしょうか?
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明らかに不平等です。
いくら自己ベストが遅くたって、走ってもいないのに負けだと決めつけるべきではありません。
たとえ勝ち目が薄くても、100人全員に「機会の平等」を与え、1位を決めるべきです。
そうでないと1位の選手だって、本当の勝者であると言えないでしょう。
このように、その中の1位を、真に平等に決めようと思ったら、まずは該当するものを全て見る必要があります。
だって決める人が知らないだけで、もっと優れたものがあるかもしれませんし、何より不平等だだからです。
年間1位のGOTYを選ぶならば、1年の全てのゲームを遊ぶべきです。
そのジャンルの名作を選ぶならば、そのジャンルのゲームを全て遊んでから選ぶべきです。
そして当然、全て遊ぶだなんてことは不可能です。
ゆえに、ゲームアワードは、不平等です。
ゲームアワードは対象があまりに膨大であるため「機会の平等」を与えられません。
GOTYだって、1年に出た全てのゲームを遊んで決めているわけではない。
だいたいこの辺だろうという予測をつけ、その中から選出されています。
今年の1番と言うけれど、そもそも今年のゲーム全ての記録を取っているわけではないのです。
記録を取っていない選手がたくさんいるのに、なぜ1位を決められるのでしょうか。
全てのゲームに、走る機会を与えるべきではないでしょうか。
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しかし、これを言い出したらきりがなく、いつまで経っても決められません。
だから、何となくだいたいで、決めるのです。
そのジャンルの名作だ!などというゲームレビューも、実は似たような不平等さを抱えています。
ジャンルの中でも特に優れている…とは、まずそのジャンルの全ての作品に触れてからでないと、判断できません。
記録を取っていない同ジャンルのゲームが数えきれないほどあるのに、なぜそれが優れているとわかるのでしょうか。
しかしこれまた切りがないので、判断する人の感覚や経験による曖昧な基準で、名作だとか傑作だとか言われます。
実は私自身も、たいへん不平等なやり方で、傑作を決めつけています。
それは「月姫 -A piece of blue glass moon-」
私はこれを傑作だとレビューしましたが、あくまで私の感覚や好み、これまでの経験からの判断です。
しかし、まだ知らないゲームが山ほどあるのに、なぜこれを傑作だと言えるのでしょう?
100人の選手の内の10人を走らせて、その中の1位を褒めているようなものです。
残り90人を走らせてみたら、そいつは案外大したことないのかもしれません。
上記の理由から、やはりUltimate Game of All Timeも不平等です。
ゲームアワード史上、もっとも不平等と言えるでしょう。
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ヤフーニュースによれば、約110万本の中から選ばれたそうです。
ではUltimate Game of All Timeは、110万本すべてに「機会の平等」を与えたのでしょうか?
無論、与えられるはずがありません。
事実ヤフーニュース内でも、ゲーム雑誌などのTOP100から30本を選出し、その中から決めたと報じられています。
つまり、だいたいこの辺…という30本だけを走らせており、残りの約109万9970本は、記録を取ってすらいないのです。
ゲーム雑誌のTOP100選出や、世界中のプレイヤーの手によって、既に記録は取られている…という意見もあるかもしれません。
確かにそうです。審査員たちが110万本を遊ぶのは無理でも、世界のゲーマーたちが、それぞれのゲームを遊んでいることでしょう。
その中で優れた30本を選んでいるのだから、やはり平等ではないのか。
しかしそうだとしても、私はやはり審査員たちの手で実際に110万本に触れていなければ、平等な選出とは言えないと思います。
タイムや点数のような基準がない以上、遊んでみるまでは絶対に判断できないからです。
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何だかとんでもない事態のように見えてきました。
しかし、これもやはり考えてみると、全てのゲームアワードが同じです。
GOTYだってファミ通アワードだって、Switchの名作10選だって、全て不平等です。
であるのにUltimate Game of All Timeに違和感を覚えたのは、やはり範囲が広すぎるからでしょうか。
とはいえ、不公平かつ不平等は百も承知のはず。
さて、 Ultimate Game of All Timeは不公平で不平等だ…と話をしてきました。
だからこそ、私はこのニュースを素直に喜べなかったのです。
しかし実を言えば、 Ultimate Game of All Timeを選んだゴールデンジョイスティックアワード自体、そんなことは百も承知だろうと思っています。
何せ30年以上、ゲームを一つの文化として見つめてきた歴史あるアワードです。
ゲームとゲームは、比べられないものであること。
まだ知らぬ名作が、眠っているかもしれないこと。
そんなことは全てわかっていると思うのです。
事実、ゴールデンジョイスティックアワードにはGOTYの他、「ベストビジュアルデザイン」や「ベストマルチプレイヤー」など。
多様な角度でゲームをたたえるアワードが設けられています。
これこそまさに、「ゲームを一つの基準で比べるのは不可能」と、誰よりも ゴールデンジョイスティックアワードがそう思っていることを、物語っています。
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1年のナンバーワンだって、なかなか決められない。
なのに50年での1番なんて決められるわけがないと、誰よりもゴールデンジョイスティックアワードがわかっていたでしょう。
それでも「無理」とか「できない」で終わらせずに、力を尽くして何か一本選んでくれた。
このことを有難く思います。
個人では絶対に不可能なことですから。
私はこの初報を見たとき、なんだかモヤモヤしました。
はっきり言えば、腹立たしい気持ちすらありました。
それは上記のような不公平さ、不平等さがあるからだと、自問自答してみてわかりました。
今は考えを改めています。
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この選考は、ゴールデンジョイスティックアワードとはいえ超難題だったに違いありません。
それでも選び抜いてくれて、ありがとうと言いたい。
そしておめでとうDARK SOULS。
1周しかできていないので、また遊んでみようかな。
一番なんて決められっこありません。
だってまだ知らぬ名作が、きっとどこかにあるはずですから。
だからこそ私は、今日もゲームを遊び続けます。