タイトル | 素晴らしき日々 ~不連続存在~ |
対応機種 | PC |
備考 | 18歳未満及び高校生以下は購入、プレイできません。 |
この感想に「論考」は出てきません
まず断っておきたいことがあります。
それは、この感想にはウィトゲンシュタインの「論理哲学論考(以下、論考)」は、一切出てこないよってことです。
本作のメインライターであるSCA-自は、その思想に論考の影響を受けており、本作にそれが込められていることは、作中何度も論考からの引用が挿入されることからも間違いないのでしょう。また有識者による「素晴らしき日々 ~不連続存在~(以下、すばひび)」の感想や考察には、論考と照らし合わせるようにして内容を捉え書かれたものが、少なくない。
「すばひび」は、論考と合わせて味わったとき、真の魅力を見せてくれる作品なのかもしれません。
しかしそれでもこの感想には、論考は一切出てきません。
「すばひび」ただそれだけの感想です。
なぜそうしたのかと問われれば、それはもう単純に、私は論考を一度も読んだことが無いからです。
論考と照らし合わせた上での感想は、当たり前ですがまず論考を読み、その内容を一定程度は理解せねば書けないでしょう。論考を一度も読んだことがない私に、論考を踏まえた上での感想など書きようがないのです。論考と照らし合わせた時、初めて意味が分かるシーンがあるとすれば、私はその意味が分からない。論考を読んでいないと理解できないシーンがあるとすれば、私はそのシーンを理解できていないでしょう。
この先の解釈や感想は、論考の思想を踏まえて見ると誤っていたり、誤解していたりするかもしれません。
この記事は「すばひび」を遊んで感じたものだけを書いています。
本作の、2つの大きな欠点について
私は「すばひび」のシナリオには、欠点があると思っています。
まずそこから触れていきます。
欠点1:面白みのない真相
「すばひび」は、既存の物語のジャンルに当てはめるならば、群像劇と呼べる作品です。
ですが本作は、私の考える一般的な群像劇(428 〜封鎖された渋谷で〜、オッドタクシーなど)とは、大きく異なる点があります。
そのため、特殊な群像劇であると考えています。
では、その一般的な群像劇と大きく異なる点とは何か?
それは言うなれば、物語の並び順です。
いきなり終盤まで明らかになる「Down the Rabbit-Hole」
既プレイの方ならばご存じでしょう。
本作はなんと、最初の視点にして始まりの章「Down the Rabbit-Hole(以下、由岐編)」で、物語の結末までの大筋を明らかにしてしまいます。
通常の群像劇は、主人公を切り替えながら場面を進めていき、やがて結末へたどり着く。しかし「すばひび」には、物語途中での主人公の切り替えは一切ありません。各主人公の最後の出番までを一度に描き切り、その後ようやく次の主人公へとカメラが切り替わります。
しかも由岐は最終局面まで出番のあるキャラクターであるため、由岐編を終えた段階でプレイヤーは既に物語中の大きな出来事を把握できてしまいます。
一般的な群像劇でも、最後の種明かしとして黒幕の視点による始まりから終わりまでを挿入するなどはあります。しかし「すばひび」はそれのみで物語を描いており、だからこそ特殊な群像劇であると感じました。
出来事ではなく、真相への興味がプレイヤーの推進力
物語において、プレイヤーを先に進ませる推進力となることが多いのは「この先どうなるんだろう?」という、いわば出来事への興味。しかし「すばひび」は上記の描き方により、この出来事への興味を早い段階で満たしてしまう。
例えば高島ざくろの飛び降りや、瀬名川の死などのシーンは、インパクトのあるシーンです。
このようなイベントはプレイヤーに衝撃を与え、この先の出来事への興味をいっそう増幅させるでしょう。だからこそ、その後どうなるかは簡単には明らかにしない…少なくとも物語の第一章で明らかにしてしまうケースは稀です。
それどころか「すばひび」は、物語のほぼ結末と呼べる部分すらも由岐編の段階で描いてしまう。
結末は出来事への興味の終着点。そこまで行ってようやく由岐編は終了し、
「It’s my own Invention(以下、卓司編)」へとカメラを切り替えます。
この時点ですでにプレイヤーは卓司が何をするのか、最終的にどうなるのかを知っています。これは続く
「Looking-glass Insects(以下、ざくろ編)」も同様。彼女が最期には飛び降り自殺で物語から退場することを、既に知っています。
ポイントになる出来事を知っているため、出来事への興味はある程度は満たされています。
では、その状態のプレイヤーは、何を推進力にして物語を読み進めるのか。ここで立ち上がるのが真相への興味。
卓司が救世主だのと嘯き、トリックによるマインドコントロールで集団自殺を巻き起こし、それ以前に高島ざくろは屋上から飛び降りて死んでしまう。いずれも由岐編で描かれる物語の大きなポイントですが、その行動は正気によるものとは思えず、動機は謎に包まれています。
由岐編で出来事をほぼ明らかにしつつ、卓司編以降でその裏側にあった真相を描く。
真相への興味でプレイヤーを引き付ける物語スタイルをとった作品です。既存の作品から類例を上げるならば、推理小説や「ひぐらしのなく頃に(綿流し編と目明し編など)」がそうでしょうか。
であるのに、卓司編以降で明かされる真相が面白くないこと。
これが本作の大きな欠点であると感じました。
今一つしっくり来ない真相
由岐編で提示される出来事=謎は、実に多くあります。
そもそも由岐編以前の序章は何だったのか?
なぜ、ざくろは由岐にキスをしたのか?
なぜ、ざくろは飛び降り自殺をしたのか?
音無彩名は何者か?
なぜ卓司は急に救世主を名乗り始めた?
終ノ空とは何か?
世界の限界にまつわる話の意味は?
……挙げれば切りがないでしょう。いずれも不可解であり、卓司やざくろの心情や動機は大いに気になるところです。しかし、続く章で明かされるその真相は、少なくとも私の期待に応えてくれるものではありませんでした。
例えばざくろの飛び降り自殺の理由は、性的暴行のショックにより妄想にとりつかれた故の行動でした。由岐にキスをした理由は単純に好きだったからで、意味深な“分け与えた力”とやらも、妄想の産物であり大した意味はないように見えます。
卓司が救世主を名乗りだした理由も、今一つ明解でなく、はっきり言えばよく分からない。卓司が由岐編の裏で信者たちに何をやっていたのかは、知ってみれば単純なことで、そこに深みは見出しづらい。
深読みを防ぐかのような描写すら見られます。
結局あのナゾはどれも、大きなショックを受けておかしくなってしまった少年少女の、珍奇な行動でした…というオチをつけられたように感じました。
そういうことだったのか!という驚きよりも、そんなこと…?という肩透かしの感が強い。
真相への興味でプレイヤーを引き付けたのなら、その真相の意外性などが物語の面白さに直結するでしょう。例えば密室殺人の話ならば、犯人が密室を構築した方法の面白さが、そのまま物語の面白さの大部分を占めるでしょう。
しかし「すばひび」は、そこが面白くない。
密室だと思っていたら実は目立たないところに窓があり、犯人はそこから出入りしてました…だなんて結末を見せられたような感覚です。
真相への興味を引く物語なのに、その真相が面白くない。
これが本作の大きな欠点の1つだと考えています。
欠点2:強引な転換
本作のもう一つの大きな欠点。
それは強引な転換です。
ご存じの通り、本作はざくろ編を境に物語が大きく転換します。
しかし、この点には強引さを感じました。
転にあたる「Jabberwocky」
「Jabberwocky(以下、皆守編)」以降、作品はその雰囲気とでも呼ぶべきものを、大きく軟化させます。
難解なセリフや描写、行動は鳴りを潜めます。描写は明快になり、ただ読んでいるだけでも物語に置いていかれることがありません。ざくろ編までは登場機会の少なかった人物らにスポットが当たり、新事実も次々に判明。皆守や羽咲(=若槻姉妹)に関する真相は正に「そういうことだったのか」と膝を打ちたくなる明確さで、打って変わったような分かりやすい面白さを展開してくれます。
しかしその分かりやすさと同時に、それまでの展開から強引にハンドルを切ったような。
ここまでとここからで、物語が断絶されているようにも感じました。
例えば皆守編以降の物語は、その目的すらも変化します。しかしこれは、いささか突然すぎるように思います。
皆守編から先、物語は間宮卓司の破壊、そして羽咲を守ることをゴールとします。これはざくろ編までとは全く違う、新たに出現するゴールです。このゴールが、ざくろ編までの謎を解決することで、自然に立ち上がったのならばともかく。終ノ空や“空に還る”など、多くの謎を残したまま新章へ突入し、全く別の目的を立てて話を進めてしまうのは、まるでそれまでの物語で提示したものを放り出しているようにも感じられます
突然「間宮卓司の破壊が俺の目的だ」と言われても、それまでとの繋がりが今一つ見えず、これまでの話は結局何だったのか?と未消化の気持ち悪さが残るのです。それでも遊びきることで卓司編、ざくろ編の謎と連結し大団円を迎えるなら良いのですが、本作はそうはなりません。
大きく二つにわけられる構成である「すばひび」
しかしその転換点は、やや強引に見えます。
あれだけ真相への興味を引く物語を展開しておきつつ、それに十分こたえることなく新章へ入り、新たな目的すら突然掲げるのは、良い繋ぎだとは思えません。
これが、私の感じた二つ目の欠点です。
私の「すばひび」解釈と、その解説
さんざん悪い点を書き連ねたので、ここからは良いと感じた点を書いていく…その前に。
私の「すばひび」の解釈と、なぜそう解釈したかの解説を挟みます。
なぜそんなものが必要なのか?
「すばひび」はその難解な内容により、プレイヤーによって受け取るもの…解釈が、特に大きく変わる作品だと思っています。
そして私が思う「すばひび」の良い点は、私の「すばひび」解釈に基づいています。
ですから、まずその解釈を説明しなければ、良い点を書いても伝わりづらいでしょう。
そのため、私の「すばひび」解釈と解説を、ここで書く必要があると感じました。
これから先には(これまでもそうだが)全て「※私の解釈です」みたいな注釈が入ります。
毎度そんな一文を挿入するのも面倒なので、ここで断っておきます。
「素晴らしき日々」とは、つまり何か?
核心から始めましょう。
本作のタイトルであり、またキャラクターたちが目指し、またSCA-自が表現した「素晴らしき日々」とは、つまりどのようなものであるのか?
私はこれを、以下のようなものであると考えています
(強調のため引用符を使っていますが、引用ではありません)
世界の外側を恐れず、また憧れず。今を捨てないこと。歩み続けること。それが幸福に生きること。その歩みは恐ろしげな一歩から始まるだろうけれど、いつかきっと、ありふれた日常になる。その日常が、素晴らしき日々。
なかなか短い文章で表すのも難しいですが、こんなところ。
「すばひび」は、世界の外側を思った人物とその結末を描き、今ここからずっと続いていくありふれた日常の素晴らしさを表現した作品であると感じました。
なぜ、そう感じたのか?
それを解説していきます。
世界の外側とは、私たちが決して知り得ないこと
「すばひび」には、それはもう何度も“世界の限界”だとか“世界の外側”だとかの表現が使われています。では、その世界の外側とは、世界の限界とは、具体的に何なのでしょうか私はこれを「私たちには決して知り得ないもの」のことを言っていると解釈しています。
その知り得ないものの一つが「死」であり、本作は死を世界の限界、外側の象徴として表現しているように感じました。
そして「すばひび」には、そんな絶対に知り得ないはずの世界の限界を目指した人物が3人います。
間宮卓司、高島ざくろ、間宮羽咲です。
3人それぞれの結末が、重要なポイントの一つであると考えています。
「死」を恐れた主人公…間宮卓司
間宮卓司は、死を恐れました。
高島ざくろの自殺で死を感じ、彼女の机に書かれた一文から世界終末の日=自身の死が迫っていることを思い出し、その恐怖に怯えました。
卓司の怯えっぷりはゲーム中でも特に強調して描写されます。
しかし、死を恐ろしいと思うことは、よくよく考えてみると不思議です。だって死は世界の外側にあり、だから私たちは誰一人として死を知らないのですから…(と言う話が、作中何度かあります)
よく知りもしない死を、なぜ恐れるのか
私たちは、決して死を知ることができません。なぜならば、死は体験できないからです。当たり前ですが、死んだことのある人はいません。だから死がどのような体験であるかは、誰にも語り得ない。
(だからこそ、死は世界の外側、限界だと言える)
にも関わらず、私たちは死を恐ろしいものだと感じます。これは不思議なことです。だって体験してもいないのに、なぜ死は恐ろしいと言えるのでしょう?
同じ恐ろしいものでも、例えば地震やスズメバチのように、体験した者が実在し恐ろしいと言っているならともかく。死は誰一人として体験し得ないもので、だからこそ誰も知り得ないこと。それを一方的に恐ろしいとするのは、決めつけではないでしょうか。
作中では、音無彩名や皆守が死を恐ろしいと決めつけることの不自然さに言及するシーンがあります。
とくに彩名は、それを冒涜だとすら言います。
それでも「死」って恐いよね。だって死はこの世界からの消滅だもん。
死は誰も体験したことがない。だから誰もよく知らない。ひょっとすると本当は、気持ちいいことかもしれない。
私たちは誰一人死んだことがありませんから、こんな仮説だって成立してしまうでしょう。しかし、理屈をいくら唱えられたところで、私たちは決して死への恐怖を克服することはできません。
だからこそ、卓司はあれだけ怯えました。ざくろの死体が這うイベントグラフィックも、彼の怯えが見せた幻覚なのだとすれば、その恐怖は計り知れないものだったのでしょう。
しかし、なぜ卓司はよく知りもしない死を、あれだけ恐れたのでしょう?
とても難しい問いですが、少なくとも間宮卓司は、死=自身の消滅であるから、死を恐れたのだと思っています。
いつか必ず消滅する卓司くん…生きる意味、ある?
死がどのような体験であるのかは、誰も知りません。しかし、死が少なくともこの世界…私たち生物の世界からの消滅であることは、間違いないでしょう。死んだ人とは、二度と意思疎通ができませんから。死体も処理され、やがて跡形なく消え去ってしまいます。
自己の消滅であるからこそ、卓司は死を恐れました。
一方それまでの卓司は、自身を「消エテモイイ。」と思っていました。だからこそ皆守に自分を破壊させ、由岐へと自身を変容させようとしていた。消滅を望んですらいたのです。
しかしざくろの自殺と、合わせて思い出した母の予言により、死への恐怖を思い出します。消えたくない。このまま消滅するなんてイヤだ。そう考えた卓司は、異常なほど死を恐れる。
しかし怯える卓司に、リルルは問います(リルルは卓司の脳内にいる相談相手的な存在…?)
いつか必ず死ぬあなたが、今生きる理由って何なの?
子孫繁栄。ビックになる。卓司は思いつく限りの反論をしますが、全てリルルに一蹴されてしまいます。そんなものはいつか必ず滅びるから、生きる意義にはならないよね、と。それでも卓司は死にたくないと必死に願うものの、一方で自身が生きる理由…死にたくないと思う気持ちにに説得力のある理由をつけられない。何せ、元々は無意識に消滅を願っていたのですから。でもその恐ろしさを思い出してしまった。
そんな卓司がついに見つけ出した生きる理由。それこそが、救世主として多くの命を空に還すことだったのです…
と、解釈しています。
救世主に、俺はなった。
救世主という存在意義を見つけ出した卓司は、自身の存在をより強固にします。そのため今度は皆守や由岐が消滅しかける。その精神は、皆守との直接対決すら制してしまうほど強かった。
一方で、卓司は決して死への恐怖を克服したわけではありません。音無との会話では、その恐怖を必死で取り繕う姿も見て取れます。しかし、それでも彼があれだけ強く振る舞えた理由は、やはり生きる理由を見つけ出したからだと思っています。
私に生きる理由なんてないのではないか?
恐らく卓司は、ずっとこの気持ちに苛まれていたのではないでしょうか。
元々彼は母と教主の間に生まれた子で、出自からして歪みがありました。それを幼少期の皆守に言われて激昂するシーンもあります。既に優秀な兄皆守がいて、一方で自身は歪んだ関係の末に産まれた子。そんな自分の存在意義に悩んだのではと思います。だからこそ、母のいう救世主…自分だけが持つ存在意義にあれだけ固執した。あのとき卓司はナイフで刺され、その精神を皆守に乗り移らせます。あのまま死んだのでは、それこそ自分が生きた意味など何もなかったことになってしまうから。
しかし羽咲を殺せず母からも見限られた卓司は、再び自身の存在意義を見失い、弱い人間になってしまう。間宮羽咲を認識しなくなったのは、それが自身の存在意義が既にないことを証明する人物だからだと考えています。羽咲はあの事件の直接の関係者であり、認識してしまえば自身の死をも認めることになってしまうでしょう。何も残せないまま死んだ自分を、認めたくなかったのではと思います。同様に、存命である母も完全に死んだものだと考えています。しかし時間の流れがその気持ちを薄め、やがて自身の消滅を願いだした…のが、卓司編の冒頭です。
(ただし、この解釈だといくらか説明のつかない点もあるため、まだ考えを深める必要があるとも思っています)
いざ行かん、世界の外側へ
救世主という存在意義を見つけ、ざくろの携帯と掲示板を使ったトリックにより信者を獲得した卓司。
では、彼は救世主として何を成そうとしたのでしょうか?
彼は、隠された死を暴き、世界を完全なるものへ変えようとしました。
そのための行為が、多くの生き物を空に還すこと。
卓司は死が隠されていることに怒っていました。死を隠した(卓司の主張によれば)教師やマスメディアを批判していまいた。世界は嘘で満ちており、それが死を始め様々なものを覆い隠すからこそ、この世界は不完全であると言います。例えば、世界は不平等で満ちているのに人類は平等なんだといい、世界は殺人で満ちているのに、人を殺すなという。では、なぜそのようなウソをつくのか?
それは善意があるからだと、卓司は説きます。私たちは本来、無知で無意味な存在ですが、それを悟らせまいとする善意が、上記のようなウソをつかせる。
いつか滅びる命に意味がないのだとすれば、それはこの世界にすら意味がないとも言える。地球はあと50億年で膨張した太陽に飲み込まれるそうですが、その日が来れば少なくとも地球の文明は滅亡するでしょう。そうしていつか終わる世界に意味などなく、当然そこに次から次へと生まれてくる命など、それ以上に何の意味もない。しかし私たちはそれを認めたくない。自分の生きることに何の意味もないんだと知るのは、悲しいことですから。
だからこそ人は私たちにその無意味さを悟らせないための善意から、ウソをつく。死を隠す。人は平等で、愛は人を裏切らない、人を殺してはいけないのだと。
しかし卓司曰く、その自身の無意味さ、無知さを認められないのは弱い心であり、目をそらしてはいけない。そうして自身の無意味さを知ってもなお、そんな無意味な存在を否定できないのなら、心の中に波紋が広がる。その波紋、揺らめきこそが、兆しへの予感…
正直、この兆しだのなんだのはさっぱり意味が分かりません(ごめん)
リルルも人間の言葉では説明できないとか言ってますし…
ただそうして救世主として信者を得た卓司は、嘘で隠されたものがない完全な世界に至るために、空に還ろうとします。この“空に還る”の意味もよく分からないのですが、とにかく卓司は迫りくる死…自身らの消滅に対し、何らかのアプローチをしたのだと思っています。
つまるところ、卓司は救世主として、世界の外側を知ろうとした。あるいは越えようとしたのか、至ろうとしたのかは私の読解力では理解しきれませんが、世界の外側へアプローチをかけた。
しかし、そんな卓司を待っていた結末は、単なる飛び降り自殺でした。
救世主云々は無論妄想であり、空に還ることは当然できず、単に落下して死にます。生の意味だのなんだのと言っておきながら、何一つ成せないまま、ただ妄想に取りつかれて落下死したのです。この悲しい結末を、音無彩名は嘲笑します。
キミカとの落下エンドは、こんな卓司の無意味な人生に意義を与えるエンドであったため、ハッピーエンドとされているのだと思っています。屋上から地面までの短い時間、卓司は抱きしめました。その行為が、卓司の生…妄想の末の自殺という意味のない生に意義を与えていました。
世界の外側に憧れた、高島ざくろ
高島ざくろは、世界の外側に憧れた人物でした。
彼女は城山らの性的暴行を受けたショックにより、汚い自分、そして糞虫だらけのこの世界を見限ってしまいます。
そんなざくろを誘惑したのが「ここではない世界」とでも言うべきものでした。宇佐美の妄言を真に受けたざくろは、この世界ではない別の世界があり、自身はそこの住人なのだと信じました。当然、そんな世界は存在しません。しかしざくろは、ありもしない外側の世界に憧れ、屋上から飛び降りてしまいます。その結果はもちろん転生でも何でもなく、単なる死。
卓司は死=世界の外側を、恐れました。その結果救世主などという妄想に取りつかれた。
それに対してざくろは、強い憧れを持ってしまったがゆえに、妄想に取りつかれた。
世界の外側…誰も知り得ないものを恐れ、憧れた二人の主人公は、悲劇的な結末で退場していきます。
ハッピーエンドである夏の終わりエンドですが…
これはもう「すばひび」のたどり着く答えが全て詰まったエンディングではないかと思っています。存在しない外側を思うことなく、今ここからどこまでも続く世界を捨てない選択をしたざくろが、素晴らしき日常を歩んでいく…。物語中盤のエンディングですが、本作が私たちに伝えたいことは、これに込められていると感じます。
世界の外側は無いと知った、間宮羽咲
卓司、ざくろに続く、最後の世界の外側を目指した人物。それが間宮羽咲です。
羽咲は優しい父を失ったことにショックを受け、その魂に会いに行こうとしました。一度も越えたことがない向日葵の坂道。その向こうが世界の限界で、そこに行けば父に会える…そう信じて、坂道の先へと一人進みます。しかし、そこに広がっていた風景は、ここと同じ世界でした。
そうして羽咲は、世界の限界などないのだと知りました。限界だと思っていた先にもずっと同じ、ありふれた世界は広がっている。この世界には外も内もない。だから私たちは“今ここ”を捨てることなどできず、そして誰も知り得ない世界の限界を越えていった父には、もう二度と会うことはできない。
卓司やざくろが目指した世界の外側は、存在しないのです。今を捨てることなどできないのです。ここが限界だと思う地点があったとしても、その先にもずっと世界は続いている…
そう気づいた人物が、間宮羽咲でした。
生とは、死への旅。だから生まれた赤ん坊は泣き叫ぶ。
間宮卓司
高島ざくろ
間宮羽咲
3人のたどった結末から、本作に込められたメッセージの一部は「世界の外側を恐れず、憧れず。今を捨てずに。」ではないかと思っています。
世界の外側=死を恐れ、それを暴こうとした間宮卓司は、ただ落下して死にました。
ここではないどこかに憧れ、別の世界を目指した高島ざくろも、やはりただ死んだだけでした。
間宮羽咲は、世界の外側にいけば父の魂に会えると信じましたが、その先にはここと同じ世界が広がっていました。
つまるところ、世界に外も内もないのです。あるかもしれませんが、それは私たちに知り得ないし、とうぜん至ることも越えることもできません。限界だと思っているその先に広がっているのは、ありふれた世界です。この世界に限界はないのです。
高島ざくろは、今を捨てない…いじめに立ち向かう決断をすることで、素晴らしき日常を手にします。しかしそれができず、外側の世界に憧れた結果、ただこの世界で死にます。外側の世界は私たちには知り得ない世界であるため、どうあってもたどり着けない。間宮羽咲がそうであったように。
間宮卓司は、誰も知り得ない世界の外側を恐れ、それに至ろうとしました。結果はご存じの通り。
いつか来る終わりを知ったからこそ幸福を祈る、人
卓司があれだけ恐れた世界の外側=死。
私たちは生まれた以上、いつか必ず死にます。それは人間に限らず、あらゆる生命の運命でしょう。しかし、その死がどのようなものであるかは誰も知り得ません。死は体験できるものではないからです。だから死は世界の外側にあると言えます。どう頑張ったところで生きながら死を知ることなどできはしない。だからいつか来る終わりを、間宮卓司のように恐れることはないのです。
しかし、それでも私たちは死を恐怖します。死そのものはよく分からないけれど、少なくとも私はこの世界からいつか必ず消滅する。理屈をこねまわしたところで、死への恐れを克服などできやしない。
作中、生まれた赤ん坊は世界を呪っている…そんな話が何度か語られます。
人間は、生まれ落ちた以上は必ず死にます。生きている間に何をしようとも、死という終止符で全て失うことになります。そして今まさに生まれた赤ん坊は、生まれてしまったがゆえに死ぬことを運命づけられ、それが呪いなのだと。生とは、死への旅だとも言えるでしょう。
死への旅の第一歩を踏み出したとも言える、生まれたばかりの赤ん坊。きっと恐ろしくて仕方がない。だから赤ん坊は泣き叫びます。いつか必ず死ぬことを約束されてしまったのですから。
死は世界の外側にあってよくわかりませんから、恐ろしいと決めつけるのは早計です。しかしそれでも、いつか必ず自分が消滅することを人は知ってしまった。だから死を恐れずにはいられません。その恐れを知ったからこそ、私たちは祈ります。この命が幸いであるように。世界が幸福でありますように。死の恐怖に飲み込まれないように。それは「いつかあなたは死ぬ」という事実を隠すウソであるかもしれません。しかしそれは、死の運命を知ったからこそ手にした、正しき祈りなのです。
例えば、動物は祈りません。動物は死を知りませんから。故にそれを祈りで隠すこともしない。もちろん動物とて自分が死ぬこと…天敵に襲われたりすれば命を落とすことは知っているでしょう。しかし、いつか自分は死ぬんだ…と絶望することはない。生は死への旅なんだ…いつか死ぬ自分の生きる意味って…などと、考えをめぐらすことも、多分ないでしょう(これも世界の外側への決めつけですが…)
だから動物は幸福であるのだと、由岐は言います。
「素晴らしき日々」とは
祈りに包まれて始まる、死への旅路。それは泣き叫ぶことから始まります。恐ろしい一歩です。自己の消滅を知ってしまったがゆえの、恐怖の一歩です。
しかしその一歩も、気が付けば日常になっているでしょう。
例えば、私たちは朝目覚めるたびに死へと近づいているとも言える。しかし自己の消滅という最大の恐怖がまた一歩近づいたと言うのに、私たちは赤ん坊のように泣き叫ぶことはしません。生まれ落ち最初の一歩を踏み出したときは、あれだけ泣いていたのに。
なぜか。
その恐ろしげな一歩が、日常へと変わっているからです。
生まれ落ちることがそうであるように、どんな一歩もきっと初めは恐怖に満ちている。しかし歩き出して振り返ってみれば、いつの間にかそれが日常になっています。私たちの毎朝がそうであるように。そしてこの日常は、これからもずっと続いていく。外側を知ることも、至ることもできはしない。どこまでも続く世界を、人は歩くだけ。
その日常こそが、本作の言う「素晴らしき日々」なのだと解釈しています。
高島ざくろは、自身の絶望であったいじめに立ち向かうことで、素晴らしい日常へと続くエンディングを迎えます。
どうせいつか終わる「素晴らしき日々」の意味って…? 皆守のだした答え
しかしそんな素晴らしき日々も、いつかは死で終わる。自身の存在意義、どうせ死ぬのに生きる意味に迷うことが私たちにはあります。
飛び降りたざくろのように、消エテモイイ。と願ってしまった卓司のように、この世界に存在する意味を感じられなくなったとき、私たちはどうすればいいのでしょうか。
この問いに答えを出したのが、皆守であり、そして本作はその答えと共にエンディングを迎えます。
皆守は破壊者として生み出されました。その命は卓司を破壊するまでの短い間だけのものであり、だからこそ彼は羽咲と親しくすることを嫌がり、また学校でも孤立していました。
つまり皆守は自身の消滅が目前にあることを知っており、だから破壊以外のことをする意味を見出せなかったとみています。
しかし皆守は明晰夢の中で強い意志…絶対に負けない。ヒーローとして羽咲を守る意志を思い出し、間宮卓司に勝利します。
ここから読み取れるのは「意志」であると考えています。
ぶっちゃけてしまえば、私たちの生に意味などつけようがありません。それでも、意志を持って今を捨てないこと。皆守が羽咲を、ざくろがキミカと共に戦うことを捨てなかったように。意味のある場所も、その出来事の意味の有無も、そもそも見つけようがない。卓司は救世主という意味を見つけ出し、その存在を強めました。しかし、初めから意味などつける必要なないのだと、皆守は気が付いたのだと思います。そして意志が、存在意義…意味によって立ち上がった卓司を打ち倒した。
私たちが生きる私たちの世界に、意味などという注釈をつける必要はないと皆守は言います。なぜならば、私たちはパズルのピースではなく、また世界もパズルのような外枠は存在しないから。
パズルのピースは、はまる外枠があって初めて意味のある存在になります。そのままでは単なる何かのカケラ。枠があり、ハマるべき場所にハマって、初めて意味のある存在になる。あらゆるものは、使うべき場所…ハマるべき場所にハマらないと、何の意味もない存在。しかし羽咲が気づいたように、私たちの世界には内や外というものは存在しません。
だから、私たちの生きる意味など探しても見つからない。そもそも、意味など必要ないのです。私たちはパズルのピースではないのですから。ハマる場所も、外枠も存在しない。
幸福に生きる、とは。
本作で伝えたいことは「幸福に生きよ!」であると、SCA-自もブックレットなどで語っています。
では、それはどのような意味なのか?
私たちの世界には内も外もありません。どこまでも、ありふれた風景が広がっています。私たちの生は、いつか必ず死で終わります。しかし死は絶対に知り得ないもので、決して至ることも知ることもできません。そのような世界の外側にあるものを恐れず、また憧れず、今を捨てないこと。その意志をもつこと。ありもしない外側を夢想するのではなく、今ここからずっと続く世界を歩むこと。死への旅路である歩みは、きっと恐ろしいかもしれないけど、いつかそれは日常に変わる。その日常こそが「素晴らしき日々。」
その日常はいつか死で終わります。死は誰にも知り得ないものですが、私たちは死を知ってしまった。だからこの「素晴らしき日々。」の中で、生の意味だとか死の恐怖に溺れてしまうことがあるでしょう。それでも、人は祈っています。「幸福に生きよ!」と。
遊ぶほどに「素晴らしき日々」に繋がる物語
私が「すばひび」を遊んで感銘を受けた点。
それはほんの細かな描写や、何の意味もないように見えた会話シーンが、「素晴らしき日々。」や「幸福に生きよ!」へと繋がっていくところです。
記事の最初、ざくろ編までと以降で物語が断絶されているようだと言いました。また卓司やざくろにまつわる真相で興味を引いているのに、その真相がつまらないとも言いました。これはエンターテインメントとして…人を楽しませる物語としては、やはり明確な欠点であると思っています。
しかし一方で、作品に込めらたメッセージを読み取ることで、その断絶は無くなっていきました。卓司やざくろの章に込められたものが、朧気に見えてきました。そのような味わい深さこそが、本作の最大の魅力ではないかと思っています。電波だ、としか思えない会話に意味が見えてきたり、もともとエモーショナルなシーンがより感動的になったり。そんな体験ができる作品です。
分かりづらい勇気
また、本作の物語がとても分かりづらいことも、大きな評価点であると感じます。
何においても分かりやすさが重視される世の中ですし、私も分かりづらいものは苦手です。一方で、本来は分かりづらいものを分かりすく加工することで、失われるものがあるのでは…とも思っています。
例えば、魚の刺し身です。刺し身はとても柔らかく食べやすいですが、本当は魚には鱗やヒレ、骨に内臓があり、それを全て取り除くことで始めて“食べやすい”になります。食べやすく加工する過程で、魚を形作る大半のものが失われています。
「すばひび」は、はっきり言って分かりづらい。しかし分かりづらいからこそ、失われていないものもあると感じます。長々と解釈を書き連ねましたが、上手く言語化できず断念した部分もありますし、そもそも「すばひび」の全容を掴めたとも全く思いません。もしこれが分かりやすく加工されていたら、ずっと簡単になるだろうけど、大切なものが削ぎ落されていたかもしれません。
とは言え、分かりづらいものは「分かりづらい」と一蹴される可能性がずっと高いだけに、加工しすぎず世に出すのは、きっと勇気のいることだったと思います。その勇気は、大きな評価点です。
終わりに
この記事を持って、ひとまず私の「すばひび」は終わりとします。
また遊ぶ機会もあるでしょうが、それはずっと先のことだと思います。
初めは難解な内容に投げ出したくもなりましたが、今は出会えたことを嬉しく思っています。そしてこの「素晴らしき日々。」の先を描いたという「サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う- 」への興味が、一層増しております。