なぜ俺は「燃えるような夕日」みたいなクリシェがこんなにも嫌いなのか

コラム
この記事は約8分で読めます。

私はクリシェが嫌いです。

クリシェとは、定型文、決まり文句という意味をもつフランス語です。日本語での例をいくつか出しまてみますと、以下のようなものがあります。

・燃えるような夕日
・抜けるような青空
・完膚なきまでに叩きのめす

いずれも、日本語の文章では度々見かける定型文、決まり文句=クリシェです。私は以前から、このような表現を嫌っています。

しかし疑問はあります。いったいなぜ私は、クリシェが嫌いなのでしょうか。実のところ、私自身でも理由を掘り下げて考えたことはあまりありません。そんな現状を正直に言うなら、反射的に嫌っているだけです。

なぜ嫌うのかが自分でも曖昧なこの現状は、健全ではないでしょう。クリシェであるから…というだけで表現や作品そのものを嫌うのは、誤りの元であるように思えるからです。「燃えるような夕日」というクリシェを使った時点でダメ!とは、ずいぶん短絡的な決めつけであると自分でも思います。

そのため、この現状に自問自答することは、価値があると判断しました。嫌いという感情を掘り下げ、その本当の姿を明らかにすることは、自分自身の視野を広げ、より豊かな感性で物事を捉えなおすきっかけにもなり得る。これは良くない…そう信じて疑わなかったものが、実はそう単純でないかもしれません。

というわけで今回は、私の「クリシェが嫌い」という感情を掘り下げ、分解していきます。
いったいなぜ私は、クリシェが嫌いなのでしょうか?

結論から言ってしまえば、クリシェを使った表現は記号を使った普遍的なイメージの喚起のようであり、それでは目の前の何かを表現できていないと感じるからです。
(以下、わかりやすく解説します)

※ちなみに、クリシェが嫌いと言いましても、これはあくまでも、言語による表現を重視される場に限った話です。例えばXへの投稿など日常的なやり取りで使われるクリシェには、何とも思いません。単に何かを伝えたいだけなら、クリシェは大変便利なものです。私も積極的に使用しています。

今回の記事内で言及するのは、例えば小説のような、表現が重視される場面で使われるクリシェについてです。

また、クリシェは音楽用語としても使われる言葉ですが、これはこの記事内では対象としていません。

私が嫌うクリシェとは、そもそもどのようなものか?

まず初めに、私が嫌っているクリシェとは、具体的にどのようなものであるかを明らかにします。

と言うのも、クリシェ=決まり文句、定型文といっても、その範囲は膨大です。厳密な定義づけは難しいのでやりませんが、大まかな対象範囲だけでも共有し、どこからどこまでの話をするのかを明らかにしておく必要があるでしょう。

本記事の対象とするクリシェは、以下のような条件に当てはまるものです。

私が嫌うのは「状況や様子、あるいは感情、情動などを書き言葉で表現する意図を持って使われるクリシェ」です。

具体的に説明します。

「燃えるような夕日」は嫌いだが、「本日はお日柄もよく…」は何とも思わない

冒頭にも書いた通り、クリシェとはフランス語で、日本語に訳すと定型文、決まり文句のような意味を持ちます。以下、wikipediaからその辞書的な意味を引用してみます(Wikipediaがどこまで参考になるのかという疑問はありますが、少なくとも記事内での話を進めるには十分です)。

クリシェ(フランス語: cliché、発音: [klɪ’ʃe])は、乱用の結果、意図された力・目新しさが失われた句(常套句決まり文句)・表現・概念を指す。

さらにはシチュエーション・筋書きの技法・テーマ・ステレオタイプな性格描写において、ありふれた修辞技法の対象(要約すれば、記号論の「サイン」)にも適用される。

Wikipedia 内 クリシェ / https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A7 より

Wikipediaでのクリシェの定義は上記の通りです。

これによるとクリシェというワードが指すのは、単に常套句、決まり文句というだけでなく、乱用された結果、意図された力や目新しさが失われているもの…という条件が付随しています。ややネガティブな価値判断を含む語であると言えるでしょう。

このwikipediaの定義は、私が嫌うクリシェの区分を良く説明してくれています。ただし、ここから更にもう少しだけ細かく分ける必要があります。

このWikipedia定義に当てはまるクリシェは、例えば以下のようなものが存在すると考えています。

例1:「本日はお日柄もよく…」

祝い事の挨拶などで定番の決まり文句ですね。今日も日本のどこかで使われているでしょうが、そうしてあちこちで使われた結果、目新しさを失っており、このワードだけでも、どこかで聞いたことがあるような、退屈な話が始まりそうな印象を受ける人は少なくないでしょう。

しかし、私はこの「本日はお日柄もよく…」に対しては、特に何とも思いません。退屈な言葉だとは思いますが、嫌いではありません。

私が嫌いなクリシェは、以下のようなクリシェです。

例2:「燃えるような夕日」

夕日の光景を表現する際に使われる定型文で、誰もが一度は聞く決まり文句でしょう。これこそ、私が嫌うクリシェの代表格と言えます。

どちらもではWikipedia定義に当てはまりそうなクリシェですが、では二つの違いはどこにあるのでしょうか。

二つの違いは「何かを表現しようとする言葉であるか否か」であると考えています。この区分こそが、私が嫌うクリシェと、そうでないクリシェを分けています(厳密には前者は話し言葉で、後者は書き言葉である…という区分もありますが、今回、これは重要ではありません)。

夕日の光景を表現するためにつくのが「燃えるような」という修飾

そもそも、人はなぜ夕日に「燃えるような」という修飾語をつけるのでしょうか。

本来「燃えるような」を付ける必要はないはずです。夕日は夕日とだけ言えば伝わるのですから。であるのにわざわざ修飾語を付ける理由は、いったい何なのでしょう。

その答えは、夕日光景をより明確に言葉で表現するためだと考えます。

夕日の橙色の光が、一面の空すらも染めるほど強く放たれ、しかし見る見るうちに地平線の彼方へと飲み込まれていく、あの瞬間。その光景の美しさを、より明確に言葉で表現したい…そんな願いを抱いたとき、人は夕日に「燃えるような」という修飾をつけるのではないでしょうか。

その光景を言葉で表すには「夕日」という単語だけでは簡素すぎるように思えます。あの橙を言葉で表現するには、何かもっと、その色や強さを表現する言葉が欲しい。そうして出てくる言葉こそが「燃えるような」だと考えています。

一方で「本日はお日柄もよく…」は、決まり文句ではありますが、そこに何かを表現しようという意図はありません。単に話すきっかけを作るための、言わば間に合わせのような言葉ともいえる。

この何かを言葉で表現しようとする意図の有無こそ、私の嫌うクリシェとそうでないクリシェを分ける境界線です。

ではなぜ、私は表現の意図を持つクリシェを嫌うのでしょうか。

その夕日は本当に「燃えるような」なのか?

「燃えるような夕日」に似たようなクリシェは、他にもいくつか思い浮かびます。

・「抜けるような青空」
・「うだるような暑さ」

前者は青空がどこまでも続く様を、後者は茹で上がりそうなほどの暑さを。いずれも、何らかのことを表現しようという意図を持って使われるクリシェです。

しかし、何かを表現する意図を持ってクリシェを用いた時、その人は本当にそれを表現しようとしているのでしょうか

ここに、私がクリシェ嫌う理由があります。

夕日の「燃えるような」は表現ではなく、もはや記号

夕日の光景を明確に表現するための修飾である「燃えるような」。しかし私は、これは表現ではないと感じています。

「燃えるような夕日」とは目の前の光景を言葉で切り取る表現ではありません。なぜなら「燃えるような夕日」という表現は、乱用の結果、夕日が美しい光景全般を指し示す記号のようになってしまっているからです。

そのため、目の前の光景を「燃えるような夕日」と言うことは、誰もが普遍的に持っている夕日が美しい光景一般に、その目の前の光景を当てはめているだけです。それは光景を誰かに伝えてなどおらず、言葉が持つ共通のイメージを想起させているだけです。

どんなに美しい夕日の光景でも、それを「燃えるような夕日」と表現してしまった時点で、その光景は「燃えるような夕日」から共通してイメージされる光景全般へと当てはめられてしまいます。それはさながら、星を表現するために「★」の記号を用いるようやり方のように思えます。「★」の記号からは、誰もが星をイメージするでしょう。「★」はそこからイメージされる一般的な星の光景をイメージさせる便利な記号です。しかし同時に、「★」が表すのは一般的な星に留まり、目の前の、同じものが存在しない個々の星そのものを伝えることはできません。

例えば、↓には2枚の夕日の光景の画像があります。この2つの光景を言葉で伝えるとき、どちらにも「燃えるような夕日」というクリシェを使うことができるでしょう。しかしクリシェを使った瞬間に、それぞれの光景、その瞬間にしかないものなど、何もかもを「燃えるような夕日」が持つ普遍的なイメージに押し込めてしまう。それは目の前の光景の表現でなく、記号を使った普遍的なイメージの喚起に思えます。だからこそ、言語による表現が重視される場で使われるクリシェが、私は嫌いです。

その光景を「燃えるような夕日」というクリシェで表すことは、目の前の光景を表現などしていません。もちろん、日常会話でクリシェを使用することは何の問題もないでしょう。しかし、言語での表現が重視される場でこれを使うことは、何か意図が無い限りは、表現者の怠慢のように思えてならないのです。

表現するポーズを取っていながら、その内実、誰もが持つ共通認識にその表現内容を委ねているだけなのですから。

ただし、あくまでも言語表現が重視される場での話です

誤解のないよう重ねて言っておきますと、今回の話は、あくまでも言語による表現が重視される場を想定したものです。日常会話やSNSでのやり取りで使われるクリシェには、私は何とも思っていません。

ただクリシェは乱用によって力を失っていますので、言葉面ほどの表現力を持っていません。そのため何かを強く表現して印象に残したい…!みたいに思ったときは、素朴でも良いので、自分の言葉を使ってみるといいかも?

ま、それができたら苦労しないんだけどね…

プロフィール
書いている人

日々プレイしたゲームの、忖度のないレビュー。オタクしていて思ったことを書いています。ADV、音ゲーが特に好き。

dis-no1をフォローする
コラム雑記
dis-no1をフォローする
タイトルとURLをコピーしました