「〇〇を、購入させていただきました」
「〇〇のレビューを、させていただきます」
このような表現、どうも違和感を覚えるのは、自分だけではないと思います。
先日Twitterで以下のツイートをしました。
言いたいことはツイート内に詰まっているのですが、もうちょっと掘り下げればブログ記事1つ分のネタになるな…と思ったため、今回はこの「購入させていただく」や「レビューさせていただく」について、私見を述べます。
はじめに断っておきます。私は日本語の研究をしている学者でも、国語の先生でもありません。
そのため、これから書くことは全て、何らかの研究に基づく論でなく、私の偏見や人生経験のみを頼りにした内容であります。ですから、皆さんが言葉の使い方について考える際、この記事をその出発点とするのは何ら問題ありませんが、主張や考えを支える元ネタとするのは、とても危険です。
ついでに言うと「最近の若いもんに正しい敬語の使い方を教えてやる!!」みたいな話でもありません。
それを踏まえた上で、はじめましょう。
「~いただく」は、ありがたみを表現する時に使う
「~いただく」という表現。皆さんはどういうときに使っていますか?
私は主に、それが受動的、能動的かを問わず、何らかの「ありがたみ」を含む場合に使うことが多いように思います。
例を出してみます。
例1:「ご来店いただき、誠にありがとうございます」
日常でもよく耳にするフレーズですね。店内放送とか、あとはアミューズメント施設なんかでも「本日はご来場いただき誠に~」とか言ってます。これは違和感のない「~いただく」の使い方です。
この例の場合、店に来てくれたこと=客の来店に対して、お店側はありがたみを感じているので、「来店」に「いただく」がくっついて「ご来店いただく」となっていると考えています。
ではなぜ、来店という行為が店にとってありがたいのでしょう?
これは客が、無数の選択肢の中からその店を選んでくれたから…と考えることができます。
我々客としては、どの店に行くか?という選択肢は無数にありますし、そもそもどこにも行かず、ネット通販で済ませることだってできます。その選択肢の中から、わざわざその店を選んだ…というのは、私たちとっては単にその日の気分とか、自分の都合の良さに基づいただけの選択であっても、お店からすればありがたい行為として映るのでしょう。
そのようなありがたみが来店という行為に含まれているからこそ、「ご来店いただく」という表現が使われますし、それに違和感もない…というのが私の考えです。
似たような例としては
「ご購入いただき、ありがとうございます」
みたいなのもそうですね。売る側、作る側にとっては、無数の商品の中から選んで買ってくれる…というのはありがたいことであるため、「購入」に「いただく」がくっつきます。これも違和感はないですね。
まとめますと「相手がした行為が、自分にとってありがたい行為であった場合、行為に~いただくをつけて感謝をあらわす」ってな感じでしょうか。これは日常でもよく見かけ、また違和感のない「~いただく」の使い方であると思います。
実は更にもう一つ、自分がする行為に対して「~いただく」をつける場合もあります。次の例を見てみましょう。
例2:「この作品に、出演させていただきます」
特に声優さんとか、役者さんのTwitterなんかで頻出する表現でしょうか。
実はこれ、上記の「ご来店いただく」とは大きな違いがあります。なんでしょう?
その違いとは、「出演」という、自分がやる行為に「いただく」をくっつけていることです。
「来店」も「購入」も、相手にしてもらうことでした。しかし「出演」は自分がすることです。自分がする行為に対して「~いただく」をつけるのは、よく考えてみると凄い違和感があります。
例えば店員さんに対して「来店させていただきます」とは、普通は言わないですね。もし言うとしたら、メチャクチャ倍率の高い入場制限がある店とか、店主が認めた客しか入れない伝説のラーメン屋とか、極めて特殊なケースになると思います。この場合でもちょっと変な感じはしますね。
ですが「出演させていただく」という言葉自体には、違和感がありません。なぜでしょう?
これはやはり「出演する」という行為に、ありがたみが含まれているからだと思います。
アニメにせよ舞台にせよ、それに出演したいと思っている役者は無数にいます。
例えば、ちょっと古い情報ですが、あの大塚明夫さんは過去に著書やネット記事などで「今の声優業界は300脚の椅子を10000人が奪い合っている状態だ」と言っています。数字はあくまでもニュアンス重視の表現で、統計を取ったわけではないでしょう。大塚明夫さんは、それくらい仕事の数に対して声優が増えすぎた…と感じているわけです。
その中から仕事を貰える…300脚の1つに自分の席を用意してもらえる…というのは、声優さんから見ればとてもありがたいことなのでしょう。だからこそ「出演」という自分がやる行為に対して「~いただく」をつけますし、そのような業界の情勢を我々部外者も知っているからこそ、違和感を覚えないのだと考えます(数ある選択肢の中から自分を…ということに対する感謝の点では、前述の例と真逆のようで実は近しいとも言えます)
「来店」や「購入」のような、してもらうことにつける、受動的な「~いただく」
「出演」のような、望んだことをさせてもらうことにつける、言わば能動的な「~いただく」
いずれにしても、そこに有難みを感じるからこそ、「~いただく」がつきますし、それを第三者が聞いても違和感がないのだ…というのが、私の考えです(厳密には、後者の例は「いただく」ではなく「させていただく」で区切って考えるべきかもですが)
さて、ここで表題の件に戻りましょう。
「購入させていただく」や「レビューさせていただく」は、一体どこにありがたみを感じているのでしょうか?
感謝するようなことでないのに「~いただく」をつけるから、違和感
私が「購入させていただく」や「レビューさせていただく」に違和感を覚えるのは、それが感謝をするべき行為には見えないからです。
もちろん例外はあります。例えば超高倍率の限定商品とか、店主が認めた客しか入れない伝説の店でラーメンを食べる際なんかは、貴重さ故のありがたみがありますから「購入させていただく」とか「食べさせていただく」のような表現が、用法的に正しいかはともかく、勢い余って出てきてしまうのが理解できます。
もっと現実的なところで言うと、例えば災害なんかで食料が不足している時に、食べ物を売ってもらったら「購入させていただく」と言っても違和感は少ないですね。
ただ逆に言えば、そのようなケースでない限りは「購入」という行為に、客側がありがたみを感じることは少ないように思います。だって、きちんとお金を払いますからね。そして払った以上、お互いの関係は対等…どちらか言えば、選択は客に委ねるしかないぶん、ありがたみを感じるのは売る側の方でしょう(もちろん、だからと言って売る側に対して偉そうにしても良い…という話ではありません)。
このようなところから、購入する側が、感謝の意の表れである「~いただく」をつけることに違和感があるのだと考えます。
この、する側がありがたみを感じることでない…というのは「レビューをする」も同様です。
これは購入以上にはっきりしています。私たちが「レビューをする」という行為は、はっきり言って、ありがたみはどこにも含まれていないように思います。だって、いったいどこの誰に感謝すればいいのでしょう?
レビューとは、たいていの場合は好みでする行為です。誰かから許可を得てするわけでも、企業努力の結晶を受け取るわけでもなくて、単に私たちがしたいからする行為です。ありがたくやらせて貰う行為ではありません。レビュアー10000人に対してレビューを書ける権利は300…なんてことはないですね。書いても書かなくてもどっちでもよくて、むしろ好評なら企業にとってはどんどん書いてほしいでしょうし、酷評ならなるべく書かないでほしいかもしれません。そのような行為に「~いただく」をつけるのは、私は違和感を覚えます。
「~いただく」は、そこにありがたみを感じるからこそ出てくる表現なのだと言いました。そのありがたみが部外者から見ても理解できる場合、仮に用法的に正しくなくとも、表現に対して違和感はでてきません。そして「購入」や「レビュー」は通常、「出演」のようなありがたみを覚える行為ではありません。だから「~いただく」をくっつけると、違和感があるわけです。
ですから「購入させていただく」や「レビューさせていただく」は誤った表現であり、使うべきではありません!!!
……はい、ここで納得してはいけません。
「購入」も「レビュー」も、ありがたみ感じるような行為ではないのに「~いただく」をつけるから違和感があります。しかし、それでも「購入させていただく」や「レビューさせていただく」と言う人はいます。一体なぜでしょうか? 彼らは日本語の使い方を間違っているのでしょうか?
私は、そうは思いません。
彼らは…そして私もそうですが、「購入」や「レビューをする」に、感謝を覚えているのです。感謝がないのに「~いただく」をつけているのではありません。そこに感謝があるからこそ「~いただく」をつけるのです。
一体誰に?
それは、生産者への感謝に他ならないでしょう。
作り手への感謝としての「購入させていただく」
お店に行けば、野菜が売っています。自動販売機では缶コーヒーが売っています。ゲオに行けば新作ゲームが棚にズラリと並び、本屋に行けば一生かかっても読み切れないくらいの本が売っています。
そしてこれらの商品は、当然ですが、空から降ってくるわけではありません。必ず作り手がいます。そして大抵の場合、作り手の努力は想像を絶します。その作り手に感謝するからこそ「購入させていただく」や「レビューさせていただく」という、一見違和感のある表現が出てくるのでしょう。
もうすぐ5月の連休です。遊ぶ予定を立てている方はきっと多いでしょう。しかし私が常々忘れてはいけないと思うのは、誰かが今働いているからこそ、私たちは遊べるのだということです。
電車には運転手がいます。お店には店員がいて、旅館には従業員がいて、食べ物屋には料理人がいます。電力会社には平時より少ないかもしれないけど職員が常にいるでしょうし、YouTubeだってスマホアプリだって、連休中だからって運営を停止することはありません。
もちろんその目的は99%が「利益の最大化」でしょう。とはいえ、彼らが活動をやめてしまったら、私たちは遊ぶこともできません。そして活動の裏には必ず何かしらの苦労や努力があり、それを知っているからこそ私たちは、ギブアンドテイクとは言え感謝をし、その感謝に基づいて「購入させていただきます」や「レビューさせていただきます」という表現が出てくるのだと考えます(レビューも、そもそも商品が無くては書けませんから)
つまるところ、一見すれば「購入させていただく」や「レビューさせていただく」は違和感のある表現です。その違和感の原因は「購入」も「レビュー」も、通常、感謝が含まれない行為であるからでした。しかし、実際のところはどちらにも感謝があります。それは誰への感謝か。作り手です。作り手の苦労を推し量り、敬意を払わんとするからこそ「購入させていただく」や「レビューさせていただく」という表現が出ますし、そうだとするならば、一概に誤りだと切って捨てることもできないでしょう。
さて、敬語の話はここで終わりです。
ですが、私にはまだ言いたいことがあります。
それは「購入させていただく」や「レビューさせていただく」という言葉を使っただけで、作り手への苦労への感謝を完了させてはいけない…ということです。
次が、この記事の締めになります。
何をもって「作り手に感謝した」とするか?
例えばの話、生産者の苦労に感謝しながら、キャベツを買ったとします。
「キャベツを買わせていただきました。生産者の皆さん、ありがとう。お疲れ様です。」
いいフレーズですね。しかし、もしこの後、このキャベツをサッカーボール代わりにして遊んだとしたら…どうでしょうか。
ちょっと過激な例で誤解もありそうですが、つまり、私が言いたいのはそういうことです。
「購入させていただきました」
「レビューさせていただきます」
そうして、作り手への感謝を示すのは素晴らしい姿勢だと思います。しかし同時に、その言葉を使えばそれだけで苦労に敬意を払い、感謝したことにはなるわけではない…とも思います。丁寧な言葉を使って、私は感謝していますよ、敬意を払っていまよ、とポーズをとりつつ、その内実は全くしておらず、キャベツをサッカーボールにしてしまっていないでしょうか?
私はこのブログで、よくビデオゲームに関する記事を書きます。ビデオゲームを作るのは大変なことだと知っています。だからこそ、作り手へ「ありがとう」という気持ちを持ちたいと思っています。生む側の苦労に敬意を払いたいと思っています。ただ、これはとても難しいことだと感じます。だって、こうすれば感謝したことになる…という定義は存在しないからです。少なくとも「購入させていただきます」という言葉を使っただけでは、感謝したことにはなりませんし、敬意を払っているとも言えないでしょう。
別に「もっと感謝すべきだ」とか「敬意を払いながら遊べ」と言っているのではありません。定められた対価を払った時点で、どのように遊ぶかは自由であります。
ただ「購入させていただきます」という態度を示すからには、その内実は言動に伴っているか?ということを、私たちは今一度、考える必要があるのかもしれません。