自分は別にテキストADV好きではないと気づいてしまった話

コラム
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「〇〇が好きだ」という自身の気持ちが、実は思い込みであったとして、そうと認めるのは難しいと感じます。

なぜなら「〇〇が好きだ」という気持ちは、その人にとって強い個性となりうるため。その人をその人たらしめる個性とは、SNSの力でキャパシティを越えた数の人と出会う現代において特に、ますます大切なものになっているでしょう。どうしたって「どこにでもいるタダの人」として埋もれていくばかりな時代ですから。

しかし、その個性を発揮したいあまり「〇〇好き」の設定を作ってしまっている…ということは、ひょっとすると“あるある”なのかもしれません。本来「〇〇好き」とは後天的に…少なくとも意志を持って作るものではないイメージがあります。しかし何らかの個性が欲しいがあまり、その設定を創作してしまう。

思えば私も若いころ「チュッパチャプス好き」という設定を作りたいがため、あの1本30円の棒キャンデーを買い込んだ時期がありました。これ見よがしに口に咥えたまま外出したりしていました。どう見ても意識してのキャラづくりでありますが、当時は決してそうは思っていなかった。我がことながら書いてみれば実に痛々しい。一方で、これは決して恥ずべきことではないとも思います。自己の確立が大切な思春期の若者ならば尚のことです。



さて表題の件ですが、実はここ最近、私の「テキストADV好き」が揺らいでいる気がしています。

断じて言っておきますが私の「テキストADV」好きは、決して意志を持って作ったわけではありません。私自身が誰よりも「私はテキストADVが好きである」と思っていました。しかし、そうではないのかもしれない…と感じ始めたのです。

今回は、それについて。

テキストADVに力を注いだ1年

この1年(書いてる時点でまだ2ヵ月ありますが)、本当にテキストADVに力を注いできました。集中力や精神力など考えれば、これが限界ではないかと思うほどです。そうしてきた理由はただ1つ。

テキストADVマガジンを書き始めたから、です。

「タ〇ンワーク」とか地域新聞だとか、あのような読み心地(タ〇ンワークの読み心地とは)をイメージしたテキストADVの専門誌…を目指している記事シリーズです。なぜ始めたかはマガジン内に書いたため省きます。

そしてこのような記事を書き始めた以上、私自身がテキストADVに人並み以上に触れなければ、と思いました。だってテキストADVマガジンは私が一人でライターと編集をやっている記事ですから、その私がテキストADVをあんまり遊んでいない…となってしまうと、何と言うか、ハクがつかない。だからこそ、この1年は特にテキストADVをたくさん遊びました。

本当はオールジャンルの雑食ゲーマー

過去には↓のような記事を書いたこともありますように、私はオールジャンルを遊ぶいわば雑食ゲーマーです

そしてオールジャンルの中でも特に好きなジャンルが2つあり、その1つがテキストADVだと思っていました(もう1つは音ゲー)
事実今日に至るまでのゲームライフで、様々なテキストADVに触れてきました。

一方でその触れてきた作品の大半は、他のADVファンからの「面白いぞ」という評判を聞いた上でのプレイであり、自らの手で良作を探しに行くことは、これまであまりしていませんでした。多数のジャンルのゲームを遊ぶ中、好評な作品を拾っていくようなプレイスタイルだったのです。

しかしテキストADVマガジンを書く上で、これからは自らが良作を発見して伝える側にならねばとの使命感が生まれました。だからこそこの1年は多くの作品を発売日に購入し、積極的に遊んできました。

汎用



評判の出回らない発売日に、しかもシリーズ(テキストADVにシリーズ物はほとんど存在しない)でもない作品を購入して遊ぶ以上、面白くないものを引いてしまう可能性も当然高いでしょう。しかし私は「テキストADV好き」である(はず)のだから、たとえハズレを引いてもきちんと遊びきり、プレイレポートなりレビューを書くことはできるだろう、つまらない作品はつまらないなり「微妙かな」と苦笑いをしながらも、結局は楽しんでプレイできるだろう。

そう思っていたのですが、どうやら違ったようなのです。

どうしてもやってしまう、未読スキップ

私は遊んだゲームは全てレビューしている…というのは遠い理想で、実際はそうではありません。最後まで遊んだけど記事は書かず、そもそも「〇〇を遊びました」と発言すらしない作品も少なくありません。

そういう作品は、たいてい未読スキップを使って遊んでしまった作品です。



多数のテキストADVを遊ぶ中、どうしても面白いと思えず、コントロールキーに手が伸びる、あるいはオプションから未読スキップをONにしてしまう瞬間が増えてきました。そしてその刹那、作品に最後まで向き合えない己への嫌悪と、私の「テキストADV好き」という個性の揺らぎを感じるのです。

私の中での「テキストADV好き」のイメージの一面は、どのような作品であっても最後まで遊びきることができる…というものです。映画好きの人がどんなにダメな映画でもとりあえず最後までは見るように、テキストADV好きならばいかにダメな作品でも、とりあえず最後までは遊べるはずだと思っているのです。とても評判の悪い作品でも、最後まで遊びきったうえでレビューなり感想なりを書き残す人は必ずいます。そういう人はきっとテキストADVが大好きなのでしょう。好きだからこそ、面白くないと言いながらも最後まで向き合うことができるのだと思います。そして、私はそれができなくなりつつあった。そのため、私の「テキストADV好き」が揺らいでいると感じたのです。

しかし、そこで疑問を抱きました。

果たして、私は「テキストADV好き」なのだろうか?

私は「面白い物語好き」である

思えば、幼いころから物語が…とりわけ面白い物語が大好きでした。

そんなもの嫌いな人の方が珍しいでしょうけれど、私の物語好きは抜きんでて…とは言いすぎですが、平均よりはちょっと上であったと思います。「ハリーポッターと賢者の石」の読書感想文を、原稿用紙で16枚分書いて先生をドン引きさせたこともありました。そして多感な10代のころ、他のどんなカルチャーよりも私に「面白い物語」をもたらしてくれたのがビデオゲーム…その中のテキストADVだったのです。

そのきっかけは「かまいたちの夜」ですが、当時の基準では早熟なオタクであった私は、美少女キャラクターと物語が融合したギャルゲーに特に心を奪われました。
そしてそんな私に呼応するようにPlayStation 2やXbox 360では、いくつものギャルゲーが発売されました。バイト代で片端から購入し、ひたすら遊んだことをよく覚えています。

振り返ってみれば、つまるところ私が好きなのは「面白い物語」であり、決して「テキストADV」ではなかったのです。

物語を提供するいくつものカルチャーの中で、美少女キャラクターが多数登場し、テキストに加えて音楽や1枚絵でより広く感覚に訴えかけるギャルゲーにもっとも惹かれたものの、そもそも根本にあるのは「面白い物語好き」であるため、それが物語として面白くなければ投げ出してしまうこともある。しかし上記の思い出があるからこそ、私自身が自分を「テキストADV好き」だと勘違いし続けてきた。

大好きなはずのテキストADVを途中で投げ出してしまう。未読スキップを使っていい加減に終わらせてしまう。そのたびにこんなことではいけないと自身を責め、また「テキストADV好き」が揺らぐことに怖さも覚えました。

しかしそもそもが間違っているのだと気づいた今、肩の荷が下りたような心地でいます。
だって、例えそのゲームを理想の形で遊び終えられなくても、私の「面白い物語好き」は確かなのですから。

「面白い物語」を求めて、テキストADVを遊び続ける

私はこれからもテキストADVを遊び続けます。

テキストADVマガジンはもちろん、レビューや感想も書き続けます。しかしそれは「テキストADV好き」だからではありません。偏に「面白い物語好き」だからです。なぜ面白い物語好きがテキストADVに結びつくのかと言えば、それは上記の思い出があるからです。未読スキップを使ってしまうことも、最後まで遊べないこともあるでしょうが、そのたびに自分を責めることはしません。縛りを設けているわけではありませんので、映画やアニメも見ますし、本も読みます。最近は「君の名は。」を改めて見て、あまりの面白さにぶったまげました。

「〇〇好き」の鎖が、時に自分を縛り付けるかもしれません。その苦しみに耐え切れず私の「〇〇好き」が崩れかけ、それが怖くなるかもしれません。しかし例え思い込みでも、今まで「〇〇好き」を貫けていたならば、そこに本当の好きなものが隠れている。そうして真の「〇〇好き」に出会えたならば、鎖が解け改めてそれに向き合うことができるようになる。

そのような体験をしました。

プロフィール
書いている人

日々プレイしたゲームの、忖度のないレビュー。オタクしていて思ったことを書いています。ADV、音ゲーが特に好き。

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