先日、Netflix等で使える「倍速再生」機能に関する記事がバズっていました
この記事を読んだとき、大変な憤りを覚えました。
倍速再生なんて邪道だ、そんな形では作品を「見た」とは言えない!と。
しかし、その後少し考えてみて、私の考えは変わりました。
今の私は
倍速再生は悪でもなんでもない。と考えています。
その理由は、どんなコンテンツも作品も、いつだって「鑑賞」なんてされず、「消費」されるのが世の常だと思うからです。
なぜ、そんな考えに至ったのか?
そもそもなぜ、倍速再生が問題視されるのか?
今回はこの点について、一緒に考えていきましょう。
なぜ、倍速再生が「悪」とされるのか
さて、まず最初の問題として、
なぜ、倍速再生が「悪」とされるのか?
これをはっきりさせておきましょう。
私はこれを
・作品を味わうことなく、流し込むように「消費」する行為だから
だと考えています。
どんな映像作品であれ、それが人の手によって創造されたものである以上、あらゆるものに意味があるはずです。
セリフのない「間」にも、何気ないように見えるカメラアングルにも、俳優やキャラの瞬き一つにも。
クリエイターたちはそこに魂や愛、あるいは何らかのメッセージを込めている。
倍速再生=早送りで作品を見るとは、例えるならば真心のこもった料理を、味わうどころかろくに噛みもせずに飲み込むような行為。
それは作った人に対して、とても失礼なことです。
作品に込められた「何か」を味わおうともせず、早送りで見てセリフとストーリーだけを拾って、視聴完了とする。
それで本当に、作品を見た、と言えるのでしょうか。
そんな形で、作品に込められたモノがきちんと伝わるでしょうか。
作品とは本来じっくりと「鑑賞」するべきもの。
それを水に溶かして流し込むのは単なる「消費」であり、そんな形で見て込められたモノを味わえるのか。
倍速再生は、クリエイターたちへの冒涜ではないか。
このような理由から、倍速再生を悪だ、邪道だと叫ぶ人たちがいるのだと思います。
私も、これを否定するつもりはありません。
確かに倍速再生は「消費」です。
それは作り手に対して失礼な行為です。
2時間の映画には2時間ぶんの愛や魂、メッセージが込めらているはずです。
それを倍のスピードで見て理解できるとは思えない。
ある名作映画の話をしましょう。
「地獄の黙示録」という映画をご存じでしょうか?
1979年に公開され、同年に開催されたカンヌ国際映画祭にて最高賞であるパルム・ドール賞を受賞。
そのほかにも数々の賞を獲得した名作映画です。
この映画は名前も地獄ですが、撮影も地獄だったことで知られています。
映画の長さは約2時間半なのですが、スタッフたちによると、実際に撮影された映像は230時間にも及んだのだとか。
それだけの映像を2時間半に収めるために、編集だけで2年もかかったそうです。
私たちにとっては、ほんの2時間半の映像作品。
しかしその裏側には、撮影されたのに使われなかった200時間以上の映像があるのです。
きっとスタッフたちは苦渋の取捨選択を繰り返し、やっとの思いで2時間半におさめたのだと思います。
230時間から、厳選に厳選を重ねた2時間半。
そうして作られた映画に、無駄なシーンなど1秒たりともないでしょう
これは極端な例ではあります。
しかし、映像作品というのは程度の差こそあれ、どれも多めに撮影して、そこから厳選を重ねたうえで作られるものです。
よく未公開映像追加!なんて売り文句がありますが、あれこそ正に、スタッフたちが入れたくても入れられなかったシーンでしょう。
本当は見てほしかったけど、泣く泣く削った未公開シーン
そんなものが出てくるくらいですから、公開された映像作品に意味のないシーンなんてあるはずがありません。
2時間の映画は、もともと2時間だったわけではないんです。
その10倍以上の時間から、苦渋の選択を繰り返して生まれた、これ以上削るもののないクリエイターの魂の結晶です。
きっと1秒1秒に、何かをこめている。
一瞬の間ですらも、味わってほしい。
そう思っているはずです。
それを倍速で縮めて飛ばし飛ばし見るだなんて、冒涜でなければ何だと言うのでしょうか。
あなたが今飛ばした10秒は、1.5倍でみた「間」は、厳選に厳選を重ねた作品の一部です。
その裏に、使われることのなかった数十、数百の時間がある。
だからこそ、1秒たりとも見逃してはいけないのです。
倍速で見て、その作品の何が理解できるのか。
そこに込められたモノを味わおうともせず、ただただ作品を「消費」するなど、言語道断。
もっと作品を味わえ! 「鑑賞」しろ!!
…でも、ちょっと待ってほしいのです。
確かに、倍速再生は作者への冒涜です。
では、倍速再生を使っていない人たちは、きちんと作品の1秒1秒までを、余すことなく「鑑賞」しているのでしょうか?
倍速再生なんて機能がなくなれば、みんなが作品の1秒1秒を、じっくり味わうようになるのでしょうか?
ここから、この記事の本題を始めていきましょう。
作品は、流し込むように「消費」されるのが当たり前
ちょっと想像してみてください。
あなたは今、吉野家に来ています。
今日の昼ごはんは牛丼。生卵も一緒に注文しました。
「早さ」がウリの吉野家、1分と待たせることなく牛丼が運ばれてきました。
卵を落とし、丼を持ち、箸を構えます。
さぁ、食うぞ!!
さて、あなたはこの牛丼を、一口一口味わいながら、じっくりと食べるでしょうか?
恐らくそうではないでしょう。
それこそ流し込むように、10分とかけず平らげ、さっさと店をあとにするはずです。
味わうことなく、食物を胃に流し込むこの行為。
正に「消費」そのものではないでしょうか。
例えを変えて、音楽で考えてみましょう。
あなたは普段、音楽をどのように聴いているでしょうか?
大抵の人は、サブスクリプションサービスを使い、あまり高くもないイヤホンやスピーカーで、「ながら聴き」でもしているでしょう。
音楽にも、映像作品同様に、作り手の魂が込められているはずです。
サビのメロディだけでなく、耳を澄まさないと聞こえないベースにだって、歌詞の一文字一文字にだって、きっとこだわりがある。
それをじっくり味わってほしい、アウトロの1秒まで余すことなく聞いてほしい
作り手はそう願っていると思うのです。
ではそんな作り手の意図を汲み、CDを買い、高いプレイヤーとヘッドホンを使い、部屋の明かりを消し、目を閉じて、音楽をじっくりと味わう…
そんなことをしている人たちが、一体どれだけいるでしょうか。
作り手の意図や願いなど気にせず、私たちは音楽を皿洗いのBGMにでもしながら「消費」します。
「鑑賞」するのは、音楽の授業か(イヤイヤと)、一部の大好きなアーティストの楽曲だけ。
残念なことに、作り手が込めたモノなんて考えないのです。
牛丼も同じです。
いや、さすがに牛丼一杯と映画や音楽を同じにするのはどうなんだ…?
確かに、牛丼と映画はかかっている手間、時間がまるで違うように見えます。
しかし、それは錯覚ではないでしょうか。
牛丼一杯にだって、作り手の想い、美味しく食べてほしい、味わってほしい…そんな尊いものが込められています。
とは言え、さすがにバイトの店員はそんなことは考えていないでしょう。
では、その奥にいるお米や玉ねぎ、牛肉の生産者たちはどうでしょうか?
当たり前ですが、牛肉はもとは牛です。生き物の一部です。
一頭の牛が牛肉として食卓に並ぶまで、どれほどの手間と時間がかかっているでしょうか。
お米だって玉ねぎだって、空から降ってくるわけではありません。
農家の人が額に汗して育てたものです。
そうして手間暇と愛情をかけて育てられた食べ物。
味わってほしい、できることならほんの少しだけでも、生産者の苦労を思い浮かべて、ありがたみを噛みしめながら食べてほしい…そう願っているだろうと、私は思うのです。
更に言えば、あんなに牛肉がどっさりのったものをワンコインでいつでも食べられるのは、想像を絶する企業努力の結晶でもあると思います。
しかし、これまた残念なことに、そんな「作り手の意図」や「込められた想い」、ましてや「生産者の苦労」など、私たちに伝わることはありません。
どんな苦労や意図があろうが、牛丼は一杯500円のファストフードです。
場合によっては仕方なく食べることすらある、「消費」するものです。
音楽も同様で、クリエイターがそこに何を込めようが、どれだけの手間暇をかけようが、月額1000円で数万曲聴けるうちの1曲でしかありません。
そんなものをいちいち「鑑賞」などしません。
流し込むように「消費」するのみです。
イントロの数秒だけで微妙と判断し、飛ばしてしまうことすら日常茶飯事です。
…………。
消費も冒涜も、繰り返され続ける運命
話を映像作品、倍速再生に戻しましょう。
・作品に込められた意図やメッセージをろくに理解しようともせず、「消費」すること。
・それがクリエイターへの冒涜であること
これが倍速再生の問題点であると言いました。
しかし、牛丼や音楽がそうであるように、そもそも世の中の多くのコンテンツ、作られたものは基本的に「消費」される運命であり、「鑑賞」など誰もしません。
そこに倍速再生云々は関係ありません。
もともと映像作品とは「消費」されるもので、これまでもずっとそうでした。
魂をこめて作られた映画を、私たちはポップコーンを食べながら、あるいは酒を飲みながら、内容なんかそっちのけで恋人とイチャイチャしながら「消費」します。
倍速再生は、そんな「消費」の新たな形でしかないと、私は思うのです。
倍速再生によってクリエイターの込めた意図や、趣が伝わらない!などと言いますが、そんなものはずっと昔から伝わっていません。
「地獄の黙示録」の裏の200時間など、知ったこっちゃないのです。
だからこそ、倍速再生を殊更に問題視する必要もありません。
倍速再生があったってなくたって、伝わっていないのですから。
これは確かに、クリエイターへの冒涜であるかもしれません。
しかしそうだとするならば、これまでもずっとクリエイターたちは冒涜され続けてきたのです。
今更倍速再生で騒いだところで、冒涜されることそのものが変わることはないでしょう。
そのため私は、倍速再生は悪でもなんでもない、と思うのです。
………いい加減にして。
そしてこの「消費」も、良いとか悪いとか、ましてや最近の若者は…なんて話でもありません。
全てのコンテンツが抱える宿命です。
嘆かわしいことではありますが、基本的に「伝わらない」
これが当たり前のことなんです。
倍速再生で憤っている人たちも、一歩他のコンテンツへ踏み出せば、きっと似たようなことをやっているんじゃないでしょうか?
本の一文一文を、マンガの一コマ一コマを、ゲームの効果音や背景の描き込みまでを、牛丼の米の一粒までを、全て「鑑賞」しているでしょうか?
作者の意図、込められた何かを、必死で感じ取ろうとしているでしょうか?
これにイエスと答えられる人は、おそらくいないでしょう。
だって「消費」こそが当たり前で、デフォルトなのですから。
そして倍速再生がなくなれば、誰もが作品を「鑑賞」するようになるのでしょうか?
私はそうは思えません。
倍速再生によって、作品が「消費」されるようになる、意図やメッセージが伝わなくなる…!というよりも、そもそもずっと「消費」をされてきた土壌があるからこそ、倍速再生なんて機能が生まれたからだと、そう思うからです。
作品の消費も、伝わらない意図も、クリエイターへの冒涜も、倍速再生が世に出るずっと前から繰り返されてきたことで、それが当たり前でした。
だからこそ、倍速再生なんてあってもなくても、変わらない。
今更騒ぎ立てるようなことじゃない。
倍速再生は、悪でもなんでもない
これが、私の考えです。
いい加減にしろこの野郎!!!!!
ど…どうした!?
「鑑賞」する人は、いないのか
いい加減にしろよマジで
はー確かにアンタの言うことは正論かもしれないですね。
私だってコンビニのおにぎり米の一粒まで味わってるか、農家の苦労を想像しながら食ってるかって聞かれたら、ノーですよ。考えたこともないですよ。
そんな私に、偉そうに倍速再生を叩く権利なんてないのかもしれない。
でもね、だからってこの話を黙って聞いてることなんて、できやしないわよ。
ど、どうしたんだよ急に…
ほら、学生時代に同人誌を書いてたから…
「消費」が当たり前? 伝わらないのが当然?
あんたそれ農家の人とかクリエイターの目を見て言えるわけ?
今この瞬間にだって、畑にでて働いてる人がいるのよ
魂込めて作品を生み出してるクリエイターがいるのよ
彼らの想いは、伝えたいメッセージは、全部ムダだっての?
撮った映画を倍速で見られても文句言うなっての?
そんなのあんまりじゃない。
当たり前のことだから、宿命だから受け入れろって?
じゃあ彼らの頑張りは何なの、流した汗はムダなの
伝わらなくたって、その想いや意図が消えてなくなるわけじゃないのよ
私たちを信じて、何かを必死に作ってるのよ
そんな人たちにとって毒にしかならない意見をばらまいて悦に入って、アンタそれで満足?
そ…そうだそうだ!
安全地帯からどや顔で正論っぽいこと喚き散らしていい気になって、典型的なネット弁慶ね。
アンタを叩く権利なんてないのかもしれない。正しいことを言っている部分もあるかもしれない。でも、受け入れたくなんかない。
アンタだって「消費者」でしかないくせに。
誰もが「消費」するだけだってのは、確かにそうかもしれない
でもね、少ないかもしれないけど「鑑賞」する人だって絶対にいる
込められた意図を、メッセージを、魂を、必死で受け止めようとする人たちは必ずいる。
そんな人たちがいる限り、頑張りも苦労も、無駄になんかならない。
私はそう信じてる。
終わりに
さて、最後に自分で自分をこき下ろしてみました。
しかし、私の考えはここに書いた通りです。
作品は消費されるのが運命であり、倍速再生なんて今更騒ぐことでも何でもありません。
ただ一つ言えるのは、誰だって意識1つで「鑑賞」する側にまわることはできる…ってことです。
「消費」が悲しいことだ、クリエイターへの冒涜だと感じるならば、せめてあなただけでも「鑑賞者」になってほしい。
私も大好きなジャンルであるゲームに限っては、常に鑑賞する気分で遊んでいます。
でも、その姿勢を他人にも求めること、そうしない人を批判することは、私はオススメしません。
誰だって、牛丼をかきこみながら食っているところに横から「味わって食え!」なんて言われたら、いい気分はしませんよね。そんなもの俺の自由だろう、と反論したくなります。
この記事が完璧な正論である…だなんて、私自身も思っていません。
あなたが作品を「消費」することに対して、何か考えるきっかけになったならば、とても嬉しいです。