『文学のトリセツ 「桃太郎」で文学がわかる!』を読みました。
文学批評の入門書と位置付けられた一冊で、批評とは何か?から始まり、既存の批評理論を解説しつつ『桃太郎』でそれを実践、最後にアルベール・カミュの『異邦人』を実際に批評してみる…の三幕で構成された本です。
最近は批評って一体なんだ、感想やレビューと何が違うんだと疑問に思う機会も増えていまして、しかし難しい本は尻込みしてしまうので、とりあえず簡単なヤツ…と探して手に取りました。
実際に読んでみると、内容は易しく理解しやすい。一方、アマゾンレビューでは、むしろ簡単に解説しすぎていて誤解を与える、入門書と言うかいっちょかみしたい人のための本…みたいにも言われています。
他に批評理論本を読んだことがない私に本書の良し悪しは判断できません。が、ともかく、せっかく入門書を読んだのだから、その理論を使って実際に批評をしてみたいな、と感じました。
というわけで今回は『文学のトリセツ 「桃太郎」で文学がわかる!』で解説されている二つの批評理論。
・構造主義
・脱構築
を使いまして、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を批評してみます。
『蜘蛛の糸』を選んだ理由は、単に短くて、みんな知ってる話だからです。
『蜘蛛の糸』ってどんな話?
青空文庫で全文無料で読めます。童話として書かれた掌編なので、大人ならすぐに読み終る長さです。
構造主義って何?
まず始めに断っておきますが、この記事内の批評理論にまつわるワードの解説は、全て『文学のトリセツ 「桃太郎」で文学がわかる!』に基づいています。
上記の通りこの本には、分かりやすさに全振りしすぎている…みたいな評価も見られます。そのうえ私自身が本書の内容を正しく理解している保証もありませんから、この記事内の解説を鵜呑みにするのは危険である…ということを前提にしてお読みください。
そのうえで構造主義とは…
構築とはすなわち、社会を構成する様々な二項対立のネットワークなのです。20世紀の批評家の中には、この二項対立を文学批評に応用し、作品の中から二項対立の要素を見出そうと試みたグループが現れました。彼らが好んだこの手法は、「構造主義」と呼ばれています(構造とは構築の同義語です)。
文学のトリセツ 「桃太郎」で文学がわかる! / 小林 真大 五月書房新社より
社会には様々な対立する二項があります。善と悪。昼と夜。理想と現実。男と女。大人と子供。
構造主義とは、作品に潜在するこの二項対立を抽出し、解明していく手法のようです。ただ構造主義はあくまでも文学内の構造の分析に留まっており、これによって判明した二項対立のネットワークから何を見出すかは、批評者に委ねられている…と私には読み取れます。
例えば、『ワンピース』には海軍と海賊=正義と悪の二項対立があります。『鬼滅の刃』には鬼殺隊と鬼=正義と悪に加えて、両者には昼と夜の二項対立も見られます。
こうして二項対立を抽出していくことで、確かに、物語からそれまでとは違った一面が見え、より深く分析できているような気はします。
例として『ワンピース』を更に構造主義的に分析してみます。
麦わらの一味内の二項対立を抽出してみます。
まずルフィとゾロは、拳と武器の二項対立であると考えられます。二人は仲間ではありますが、戦いのやり方ははっきり対立しています。更にルフィとサンジには、拳と足技の二項対立があります。ルフィも蹴りを使わないわけではありませんが、メイン技は大半が拳によるもので、一方サンジは蹴り以外は一切使いません。更に更に、ルフィとウソップには、拳と遠距離攻撃の二項対立が見られます。ウソップは近接攻撃を一切やらないわけではありませんが、主力技はパチンコを使った遠距離攻撃です。
…と、同じチームである麦わらの一味内にもいくつもの二項対立を持たせてあり、それによりバトルシーンでの展開が豊かになるよう作られていることが、構造主義的な分析により、いっそう鮮明になります。
ただ構造主義の弱点の一つとして、繰り返しになりますが、あくまでも分析に留まるという点があるようです。つまりルフィとゾロ=拳と剣の二項対立があることは判明するけど、そういう内容の良し悪しだとかに、構造主義そのものがコメントすることはないようです。構造主義によって何を見るか、そして見えたものから文学をどう批評するかは、批評者に委ねられます。
脱構築って何?
脱構築とは…
「脱構築」の旗手ジャック・デリダです。彼は構造主義の手法を批判的に分析し、二項対立という概念が、実際には不平等で暴力的な上下関係を含んだものであることを指摘しました。(中略)デリダによれば、いかなる二項対立の中にも、実際には差別的な上下関係を含んでいます。
文学のトリセツ 「桃太郎」で文学がわかる! / 小林 真大 五月書房新社より
やや複雑になりますが、デリダによれば、上述の二項対立の関係は、実際は対等でなく、差別的な上下関係を含んでいるのだそうです。例えば、書内でも挙げられていますが、分かりやすいところでは、男と女の二項対立があります。これが対等でないことは、誰もが知っていることです。
デリダは、文学こそが、このような差別的な上限関係を含む二項対立を反転する力を持つと考えたようです。
次にデリダは、こうした二項対立の見えない上下関係を暴き出そうとしました。そこで彼が注目したのが文学です。彼は、文学のみが、現実世界の頑丈な二項対立を揺さぶり、切りきざみ、破壊することができると考えました。これが脱構築と呼ばれる手法です。
文学のトリセツ 「桃太郎」で文学がわかる! / 小林 真大 五月書房新社より
理想は現実より儚く、昼は夜より不気味で、子供は大人にかなわない。
私たちが二項対立であると考え、しかし実際はそこに潜む差別的な上下関係の構造は、文学だけが破壊し脱構築できる。では、その作品ではどのような二項対立が、どのように脱構築されているか?
文学に対しこのような読みを入れることが、脱構築の手法のようです。
再び『ワンピース』を例にしてみます。
ワンピースには、悪魔の実の能力者は、海に嫌わてしまうため泳げなくなる、海水に触れると力が出なくなる…という設定があります。対人ならば無類の強さを見せる能力者ですが、大自然の象徴である海には滅法弱い。この設定から、人と自然の二項対立における上下関係を脱構築している、と仮説を立てることができます。
地球温暖化をはじめ、現実では人に守られる存在になりがちな自然。ここに人(文明と言い換えても良い)と自然の上下関係があります。
しかし、ワンピースにおいては、悪魔の実によってどんなに強い力を持った人であっても、海には決して勝てません。この点でワンピースは、現実世界における人と自然の上下関係を破壊=脱構築が込められた物語だと考えることが可能です。
なかなか面白い脱構築の考え方ですが、弱点もあります。
まず、脱構築をしたところで、結局また別の上下関係が生まれてしまう点です。ワンピースで言えば、脱構築によって、今度は自然を上にした別の上下関係にハマってしまっています。そこで重要なのが、物語の意味を一つに固定しないことなのだそうです。
つまりワンピースは、悪魔の実の能力と海の関係から、自然がとても強い存在であることを示しつつも、一方で「自然系」を覇気の力で打ち破る描写から、自然の力を人が努力で上回る物語だと見ることもできます。脱構築は、このどちらかを正解だとはしません。二つの解釈が同時に成立するのです。
しかし、こうなってくると、結局物語の解釈は人それぞれ、何でもあり…ということにもなってきます。人と自然は、どっちも上で、どっちも下なのです。このような曖昧で、価値基準の判断を放棄してしまう点も、脱構築の大きな弱点のようです。
『蜘蛛の糸』を構造主義で分析してみるテスト
いよいよ、『蜘蛛の糸』を上記二つの批評理論で批評していきます。
まずは構造主義の手法を使って、作品内の二項対立を抽出してみます。ざっと読んでみると、以下のような二項対立を発見できます。
上と下 | 人と自然 | 楽と苦 | 善と悪 |
極楽浄土 | カンダタ、お釈迦様(?) | お釈迦様 | 蜘蛛を見逃す |
地獄 | 蜘蛛、蓮 | カンダタ | 泥棒、殺人など |
こうして構造主義的に見たことで、なかなか面白い考えが浮かんできました。
カンダタと同じくらい、お釈迦様にも問題があったのではないか?
『蜘蛛の糸』は一見すると、カンダタの顛末を通し、彼を見本に、時に反面教師にして、子供たちに道徳教育をする物語に見えます。
道徳教育の内実は、命を大切にすること、小さな善でもお釈迦様はちゃんと見てくださっていること、恵みを独り占めしないこと…などです。カンダタと同じ状況になったとき、蜘蛛の糸が切れてしまわないような立ち振る舞いをしましょう…というのが、本作を道徳教育の教材として見た場合の結論になるように思います(そもそも地獄に落ちるようなことをするなって話です)。
しかし物語から二項対立を抽出し、改めて読み直してみると、私の中には全く違う考えが生まれてきました。と言うのも、読めば読むほど、カンダタよりもお釈迦様の行動に違和感を覚えてきたのです。
『蜘蛛の糸』はカンダタだけでなく、お釈迦様の愚かさも描く物語なのではないでしょうか?
以下、そう感じた根拠を解説します。
まずカンダタへ糸を下ろしたお釈迦様の行動を見てみます。なお、ここから先の引用内における「カンダタ」は、原文では漢字で表記されているものを私がカタカナに直しています。どうもカンの字が特殊なようで、変換では出てこない為です。
ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。(中略)御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、このカンダタには蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。
『蜘蛛の糸』/ 芥川龍之介 青空文庫より
こうしてみると、お釈迦様の行動は気まぐれであることが分かります。お釈迦様は、別にカンダタを助けようと思って探していたわけではありません。ブラブラと散歩をしていて、蓮池から地獄の底を覗いたら、カンガタを見て、それで生前の善行を思い出し、地獄から救い出してやることにしたのです。
お釈迦様の行動が、実に偶発的であることがわかります。慈愛に満ちた行動ではありません。
この後お釈迦様はカンダタを助けるため、蜘蛛の糸を下ろしてやるわけですが、これはよく考えると変です。いったいなぜ、そんな微妙な救出方法を選んだのでしょう?
『蜘蛛の糸』内には、地獄と極楽浄土には何万里となく距離がある…とはっきり描写されています。一里はキロメートルに直すと約4キロだそうです。つまり地獄と極楽浄土は、最低でも4×10000で4万キロ以上の距離があることになります。これだけの距離をよじ登るなんてことが、果たして可能なのでしょうか。
もし本当にカンダタを救い出してやるつもりなら、もっと別の方法を取るべきですし、お釈迦様ほどの人物(?)ならそれができたでしょう。いったいなぜ、カンダタを試すような真似をしたのでしょうか。本当に助ける気があるのか疑問に思います。
カンダタはこの後「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚いて、それによってかは定かではありませんが、蜘蛛の糸が切れて地獄へと再び落ちてしまいます。
それを見たお釈迦様の反応を見ますと、これもどうもズレているように思います。
御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがてが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、カンダタの無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
『蜘蛛の糸』/ 芥川龍之介 青空文庫より
お釈迦様はカンダタの浅ましい姿を見て悲しい顔をしていますが、そもそも、一番マズかったのはお釈迦様の助け方だったのでは…と私は思います。こんな助け方では、人の浅ましさ、無慈悲さが見えてしまうのは当然だと思うからです。
血の池から糸をよじ登るカンダタの姿を見れば、他の罪人たちが、俺も私もと後に続くのは当たり前です。その重さで糸が切れてしまうことをカンダタが心配するのは、これまた至極当然であり、つまり、カンダタの浅ましさや無慈悲さが出てしまうような状況を作り上げたのは、それが意図的かどうかは分からないにせよ、お釈迦様自身なのです。なぜ、カンダタ一人だけを助けなかったのでしょう。だいたい、もし糸が切れなかったらどうするつもりだったんでしょう。
助ける、などと言いつつ、その実、浅ましさや無慈悲さが出てしまいやすい状況を作り上げ、それが露呈するところを見て、悲しそうな顔をするお釈迦様。もちろんカンダタの言動は良くありませんでした。しかし、お釈迦さまだって「ちっとやり方がマズかったかな」と反省すべきではないでしょうか。
このような点から、『蜘蛛の糸』はカンダタだけでなく、お釈迦様も問題のある人物として描かれていると考えています。
お釈迦様とカンダタは、いくつかの二項で対立しています。
まず楽と苦の二項対立があります。さらにお釈迦様のいる極楽浄土とカンダタのいる地獄には、位置エネルギー的な上と下の二項対立も確認できます。つまり『蜘蛛の糸』から二項対立を抽出すると、上で優雅に、ブラブラと楽でいるお釈迦様が、下で苦しむカンダタに対し、実に気まぐれ的に、しかも試すようなやり方で、上へと登るチャンスを与える物語と読み取れる…というのが私の考えです。
面白いのは「上」かつ「楽」でいるお釈迦様自身も、上記の通り、愚かである点です。
この話は一見、カンダタの愚かさを反面教師にするような物語ですが、じっくり読んでみると、お釈迦様の行動のおかしさが現れはじめました。しかもお釈迦様自身は、自身のそのような点を顧みるでもなく、カンダタの浅ましさにただ悲しい顔をするだけで、またブラブラと歩いていく。そんなお釈迦様もも、私にはカンダタと同じように愚かに見えます。
つまり『蜘蛛の糸』はカンダタだけを下げる物語ではありません。地獄へ落ちたカンダタと同時に、お釈迦様もまた下げる物語である…と考えています。
芥川自身も、お釈迦様の行動をどこか慇懃無礼に表現している点も、この考えのもとになっています。芥川は作中で、お釈迦様の行動や様子を以下のように描写します。
・御思い出す
・御顔
・御歩き
・御目
・御佇み
当時は敬語がどのように使われていたのか分かりませんが、お釈迦様の行動にやたらと「お」をつけており、現代の基準で見れば、これは却って失礼な言葉遣いにあたります。芥川自身も、お釈迦様を皮肉を込めて描いているように見えます。
上にいるお釈迦様にも、下にいるカンダタにも問題がある『蜘蛛の糸』。結局人って、みんなちょっとずつ愚かなのね。…と結びそうになりますが、話はまだ終わりません。
ここで浮かび上がってくるのが、蓮です。
最強の存在、蓮。脱構築で読んでみるテスト。
まず初めに、『蜘蛛の糸』が脱構築している…と私が考えている二項対立を明らかにしておきます。
その二項対立は「人と自然」です。本作はこの二項を自然が上位、人が下位へと脱構築しています。
そう思う根拠を解説します。
踏みつぶされそうになる蜘蛛
まずお釈迦様が蜘蛛の糸を下ろすきっかけになった、カンダタの善行を振り返ってみます。
小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這って行くのが見えました。そこでカンダタは早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
『蜘蛛の糸』/ 芥川龍之介 青空文庫より
どこが善行なんだ?
うっかり流してしまいそうになりますが、カンダタのやったことは、よく見ると善行でも何でもありません。蜘蛛を踏み殺そうとしたのを、思い留まっただけです。お釈迦様は小さい命を助けようと考えたその心を評価したのでしょうか。
しかし蜘蛛にしてみれば、一度は自分を踏み殺そうとした人間を、それを思いとどまったことだけを理由に地獄から助けてやろうなど、全く納得いかない話かもしれません。
『蜘蛛の糸』内には、人と自然の二項対立がありました。お釈迦様とカンダタが人で、蜘蛛と蓮が自然です。その自然側である蜘蛛は、人の気まぐれで命を狙われ、直後に救われ、そうして振り回されるか弱い存在に見えます。
つまり本作は物語の前半では、この二項対立を人が上位、自然を下位として描いています。この構造を脱構築するのが、最初と最後に登場するもう一つの自然、蓮です。
少しも頓着しない、蓮
『蜘蛛の糸』内に蓮が登場するシーンは二か所あります。私が重要だと思っているのは終盤の方です。
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。
『蜘蛛の糸』/ 芥川龍之介 青空文庫より
蓮は、お釈迦様とカンダタのやり取りを「そんな事」と言っています。
再び地獄に落ち、終わることのない苦しみを味わうであろうカンダタ。自分のやり方を反省もせず、またブラブラと歩いていくお釈迦様。どちらもそれぞれ愚かでありましたが、そんな人間たちの行い、営みなど、蓮にとっては「そんな事」。頓着することもなく萼をゆらゆら動かすその様は、人のすることなど全く意に介さないという意味で、人よりも上位であると考えられるのではないでしょうか。
この描写が、一度は踏みつぶされそうになった蜘蛛を通して示された二項対立の暴力的な上下関係を、最後の最後に脱構築していると批評します。
少なくとも芥川は、蓮をそのような存在として描いているように見えます。人の行いに全く頓着しない蓮=自然の姿から、その雄大さ、あるいは人のちっぽけさ…そのようなものを『蜘蛛の糸』から感じられはしないでしょうか。
終わりに
私は国語の先生でもありませんし、文学を専門に学んだ人間でもありません。入門書を一冊読んだだけで書いた内容ですから、穴があることと思います。
ひとまず次に読みたい批評理論の本の目星はついていますので、そちらへ移りつつ、次の題材も探しているところです。