フェミニストと美少女コンテンツファンは、いつになったら歩み寄れるのか?
皆さんは『月曜日のたわわ』の騒動を覚えていますか?
2022年4月、日本経済新聞に掲載された、マンガ『月曜日のたわわ(以下、たわわ)』の広告が炎上。国連女性機関まで巻き込んでの騒動に発展しました。『たわわ』は現在もヤングマガジンで連載が続く人気マンガ作品で、内容をコミックス1巻を試し読みしただけの範囲で解説しますと、巨乳の女性キャラによって、憂鬱な月曜日を迎える社会人に元気を出してもらおう!というコンセプトの作品です。この作品の単行本の全面広告が日本経済新聞に掲載され、それに反発する側と擁護する側とで大きな騒ぎになりました。
また同年7月にはqureateから発表されたビデオゲーム『ビートリフレ(旧題マッサージフリークス。以下、旧題は省略します)』がSNSで激しく炎上しました。これはマッサージ師の主人公が、訪れた女性キャラをリズムに合わせてマッサージするゲーム。上手くマッサージすると女性キャラはどんどん興奮?していき、服もはだけていきます。


2022年はこのようなマンガやゲーム作品における女性表象にまつわる大騒動が、近い時期に続けて2件おこりました。
一方で、私の肌間隔になりますが、ここ最近は上の二つほど大きな論争は起こっていないように見えます。もちろん私の知らないところではいくつも起こっているでしょうが、SNSの一大トレンドになるほどの規模では発生していないと言ってよいのかもしれません。
しかし恐らくですが、これは問題が解決したことを意味するのではないのだと思います。落ち着いている理由はただ単に火種がないから。あるいは小さいため燃え広がらないだけであって、決して諸問題が解決したからではないでしょう。
そこで疑問が浮かびます。
結局のところ『たわわ』にせよ『ビートリフレ』にせよ、何が問題だったのでしょうか?
というのも、私には2件が鎮火した理由は、ただ単に騒いでいた人たちが疲れたから、もしくは飽きたからに見えます。殴り合っていた当人たちの体力が切れたので解散になっただけであって、二件の抱えている問題が解決し、何らかの合意形成がなされた結果の鎮静化ではない。つまり有耶無耶のまま終わってしまっているように感じています。
とはいえ、さすがに国連女性機関は問題点を具体的にピックアップして指摘しています。しかし、そこから議論に発展した形跡は私には見受けられませんし、当の日経新聞も「問題だと思っていなかった」のような、煮えきらないコメントを残して終わっているようです。では問題はあるのか、ないのか。これではどっちの主張が通ったのかがさっぱり分かりません。
そしてその殴り合いの現場=SNS上での議論は、様々な論点が錯綜するばかりで一向に噛み合わないものだったように思います。フェミニスト1は「ゾーニングをすべき」や「女性に恐怖を感じさせる」と言い、一方の二次元ファンは「表現の自由」や「現実の被害者の不在」などを理由にその全てを突っぱねる。しかし、この議論はまるで噛み合っていません。
まずフェミニスト側の主張2であるゾーニングと恐怖感は全く別の問題です。ゾーニングをすれば恐怖を与える表現があっても良いのでしょうか。恐怖を与える表現があることが問題なのか、表現の内容ではなくゾーニングがされていないことが問題なのか。この噛み合わなさは擁護側も同様で、表現の自由のもととはいえ許されない表現は当然ありますし、そして現実での被害者が不在であっても、ゾーニングは適切にされなければならず、かつその表現が誰かに恐怖感を与える事実が消えてなくなるわけでもありません。つまり全然反論になっていない。

こうして結局どこにどのような問題があるのか、それがどのように解決したのかすら曖昧なまま、いつしかどっちも疲れて飽きる。私の見る限り、過去の似たような騒動はどれもそうして終わってしまっています。
そうだとするならば、最近は炎上騒ぎが起こらないからと言っても、やはり問題が解決したのだとはいえないはずです。だってそもそも何が問題だったのかすら分かっていないのですから。
もしかしたら、企業の間では適切な解決がなされているのかもしれません。昨今は特に大企業はそのようなものへの意識が高くなっており、また社会からもそれが求められます。あるいは表立ってはやらないようにしようとアンダーグラウンド化したのかも。
いずれにせよ、その問題と解決が私たち個々の消費者のもとで具体的な形で理解されておらず、前述の通りの単なる殴り合い→飽きて解散…に終わってしまっているのならば、それは不十分です。そんなケンカ別れみたいな決着では、当の私たちの胸に残るものが「ツイフェミは面倒くさい」とか「オタクは頭がおかしい」とかになってしまいかねない。
これでは、フェミニストと美少女コンテンツファンはいつまでも断絶されたままです。今はお互いに目が合わないように気を付けているだけではないでしょうか。それでは何も解決していません。
だからこそ私は思うわけです。
フェミニストと美少女コンテンツファンは、いつになったら歩み寄れるのか?
ここでいう歩み寄るとはつまり、お互いがお互いの問題を認識したうえで話し合い、最後には解決することです。
「アイツらに歩み寄る必要などない!」と突っ張る人もいるでしょう。でも私はそうは思いません。何を隠そう私も二次元美少女キャラのファンです。だから『たわわ』や『ビートリフレ』のような私の好きなものが誰かに憎悪されたまま放っておくというのは、なんだか落ち着きません。もちろん全ての人に受けいれてもらうのは難しいでしょうが、可能な範囲で歩み寄れるならばそうしたいと思っています。
そして歩み寄りのためには、まず問題点を知る必要があるでしょう。当たり前ですが、何が問題なのかもわからないのに解決などできるはずがありません。

では例えば上記の『ビートリフレ』は、何が問題だったのでしょうか。
Switchで発売されたこと?
全年齢向け(Z指定ではなかった)こと?
キャラ名が実在のアイドルから取られていた3こと?
この全部?
私の意見を言えば、これはどれも違います。いや違うとまでは言えないんだけど、もう一つ掘り下げる必要があると思います。私が考えるべきだと思うのは、そもそもなぜ『ビートリフレ』に上記のような問題点が突き付けられるのか、ということです。
全ての根本は、その表現にあります。
Switchで発売するな!と言われるのも、ゾーニングすべきだ!というのも、実在のアイドルの名前を使うな!と言われるのも、そこに、そうするには不適切(と思われる)な表現があるからです。例えば『マリオカート』をSwitchで発売しても、世界中の誰も文句を言いません。しかし『ビートリフレ』はあれだけの騒ぎになった。それは『ビートリフレ』の中に、Switchで発売するな!と言いたくなるくらいの何らかの問題(少なくともフェミニストはそう認識している)があるからでしょう。ではそれは何で、なぜ問題と言えるのか。それこそが真に話し合うべき論点だと思います。キャンセルもゾーニングも問題の解決法ですから、それは問題が明らかになったあとで考えるべき点です。
だからたどるべき道筋は「このゲームのこの表現に、こんな問題があるよ」が最初で、そのあとに「だからSwitchで発売すべきではないよ」です。いきなりキャンセルを求めるべきではありません。安易にキャンセルされてしまったら本当の問題点が見えなくなってしまいます。事実『ビートリフレ』はSwitchでの発売こそ中止したものの、タイトルとキャラ名を変えただけでSteamで発売されました。今も普通に購入できます。サマーセールで安くなっています。この結果だけを見れば『ビートリフレ』の問題点はSwitchで発売しようとしたことだけに見えてしまいかねません。キャンセルされてしまったせいで、本当の問題である表現の話になっていない。
これは擁護する二次元ファン側も似たようなことが言えて、問題点がなんであるのかも知らないままに「表現の自由だ!」と連呼するだけでは、やはり本来話し合うべき点が見えないままです。
その「本来話し合うべき点=本当の問題点」が何であるのかを考えてみよう、いやそれ以前に、その表現の問題点がどこにあるのかに気づいてみよう、というのが、この記事の目的です。
この記事はシリーズ化する予定でいます。毎回様々なアニメ、ゲーム、マンガ…まぁ大体ゲームになると思いますが、その中のモヤっとする女性表象を取り上げ、その問題点や解決法を考えてみます。今回は『制服カノジョ』という恋愛アドベンチャーゲームに関する話をします。

とはいえ、ここで疑問が浮かぶ方もいると思います。
なぜ、その本当の問題点とやらを、フェミニストではなく、私にような二次元美少女キャラファンの側から探す必要があるのでしょうか?
それは自ら弱点をさらけ出す愚かな行為ではないでしょうか?
これに関する私の考えは、記事の後半で自ずと明らかになります。
さて本題に入る前に、かるく自己紹介をしておきます。というのも、この話題は語るものが何者なのかを明らかにしておいた方が良いと思うからです。
まず大前提として、私は二次元美少女キャラのファンです。特に若いころはギャルゲーをたくさん遊びました。最近はギャルゲーはそうでもないですが、相変わらず美少女キャラは好きで、例えば『Stellar Blade』なんかは予約購入したうえでDLCも全部買っています。ギャルゲーも全く遊んでいないわけではありません。直近だと『アオナツライン』のSwitch版をプレイして、このブログで感想も書きました。
一方フェミニズムに関しては…ぶっちゃけ素人です。学校で専門に勉強したとかではないですし、何かの活動に参加してるとかでもありません。一応、趣味レベルで関連の入門書を読んだことはあります。が、内容は忘れている部分が多いです。とはいえ女性差別にはシンプルに反対ですし、男女平等が実現するべきだと思っています。
ですから私の立ち位置は、どちらかと言えば美少女キャラ擁護派になります。何でもありだとは思いませんが、無くなったらイヤだなと思います。しかしだからと言って女性差別や蔑視を気にしていないわけではありません。そういうものは無くしていくべきだと思っています。ただし、だからと言って何か勉強とか活動をしているわけではなく、ぼんやりと思っているだけです。そういうポジションにいる人間が書いている内容だということは、ここではっきりさせておきたいと思います。
またこれも重要なことだと思うので書いておきますと、私の性自認は男性かつ性的指向は異性…だと思っています。典型的な異性愛シス男性だと思ってもらって差し支えありません。ただし、現在パートナーはおらず、ついでに言うとこれまでの人生で一度もできたことがありません。こんなことまで明かす必要ある?と思われる方もいるでしょうが、何というか、この問題にコメントするときは、こういう部分を各人の言える範囲で言っておいたほうが面倒がない。もちろん、他者に強制されるものではありませんし、してはいけないとも思っています。
ではいよいよ本題に入ります。今回は『制服カノジョ』という美少女ゲーム内における、とある発言に着目します。
福岡の女性を、観光対象として扱っていいのか―『制服カノジョ』の「福岡美人」発言の問題点
今回取り上げる作品は『制服カノジョ』というビデオゲームです。と言っても作品全体でなく、冒頭のワンシーンにでてくるたった一つのセリフに関してです。
まず『制服カノジョ』がどういう作品であるのかを解説し、そのあとに具体的なシーンをピックアップし、それがなぜ問題であるのかを考えてみます。最後には、その表現の問題をなぜ私がここでピックアップして語るべきだと思っているのかにも踏み込みます。
『制服カノジョ』とは?

今回取り上げるのはエンターグラムから発売されている恋愛アドベンチャーゲーム『制服カノジョ』です。発売は2024年2月22日。とてもシンプルなビジュアルノベルスタイルかつ王道の恋愛ADVで、プレイヤーは男性主人公として3人のヒロインと仲を深めながら、やがていずれか1人のヒロインとの間で発展する恋愛関係を楽しむことができます。ちなみに本作はPC版含めて全年齢向けで、18禁版は存在しません。
そんな本作の特徴はいくつかあります。例えばタイトルやメインビジュアルからも分かるように「制服」が大きくピックアップされていることがそうでしょう。
ただ本記事で注目したいのは別の点です。
それは何かと言いますと、本作がゲームの舞台として福岡の博多…つまり実在する場所を作品世界として選んでいることです。
『制服カノジョ』には福岡に実在するスポットが多数登場します。公式サイトにも「地方都市ノベルゲーム聖地化計画」という文言がありますから、開発側もこれを本作の特徴としてプロモーションしていることは明らかでしょう。

「天神」は福岡に実在する駅名です。
また地名だけでなく、これまた実際に活動しているVtuberも二名登場します(当然ヒロインではない)。

さてそんな本作の物語は、主人公である男子学生が都心から福岡に引っ越してくることから始まります。物語冒頭は主人公がとある出来事により引っ越しを決心し、飛行機で文字通り飛び立つシーンが描かれます。
そして私が問題だと思っている点は、正にこの冒頭部にあります。次はそれがどんなシーンか、確認してみましょう。
福岡と言えば…福岡美人?
ピックアップするのは、主人公が都心から福岡に向かう飛行機に乗っているシーンです。
都心→福岡となると結構な距離の移住ですから、主人公がドキドキしている様子が描写されます。そんな彼の心を落ち着けてくれるのが、機内映像として流れるVtuberによる福岡PR動画です。

2人は福岡の良いところを合計で3つ紹介します。1つは福岡グルメ。2つめはコンパクトシティとしての魅力です。ここでは実在する福岡の食べ物や地名が背景ビジュアルに登場します。
そして3つめに紹介されるのが、福岡美人です。
2人は福岡の魅力として、福岡に美人がたくさんいることと、福岡に美人が多くなりやすいといえる根拠を紹介します。そしてその後のシーンで福岡空港に降り立った主人公は、周りを見て、本当に美人が多いことに驚きます。

私が問題視しているのは、この福岡美人のくだりです。なぜそう思うのか。以下でこれを解説します。
福岡の一般女性を、動物園のパンダのように扱っていいのか?
福岡美人は、福岡グルメとコンパクトシティ、そして福岡の名所に続いて紹介されます。このことから、福岡における観光の対象として紹介されていることは明白です。しかし私は、福岡の女性をこのような形で紹介するべきではないと思います。
なぜなら、これでは福岡の一般女性が観光対象として…まるで動物園のパンダのように扱われていると感じるからです。
観光対象としてそれを紹介することは、それを見たり、体験したりすることをオススメするということだと思います。ならば福岡美人を観光対象として紹介するのは、福岡の女性を見ることがオススメされている…すくなくとも紹介する側はそのような事柄だと思っているということにならないでしょうか。
しかし当たり前ですが、福岡の一般女性たちは観光名所ではありません。各々が各々の人格を持ち、誰とも変わらず尊重されるべき人権を持って生活する人間です。そのような存在を動物園のパンダだとか水族館のイルカだとかのように「見る対象」として扱うことは、私は蔑視だと思います。
これが例えばご当地アイドルや京都の舞妓さんを指しているならば、話はいくら変わるでしょう。自身が観光の対象とされることを承諾している部分があると思うからです。しかし『制服カノジョ』の描写を見る限り、本作がその対象にしているのは明らかに一般女性です。

しかもそうしてオススメする理由が「美人であるから」ということは、その視点にはいくらかの性的な目線が込められているでしょう。
そのような目線で一般女性を「見る対象」として扱うことは、その気持ちを無視し、動物園のパンダや水族館のイルカのように扱う蔑視である。私はそう考えます。
ここまでを読んで、「あくまでもゲームの中の福岡の女性を対象にしているのでは?」という反論が浮かぶ方もいると思います。これは確かにその通りです。しかし私はこの反論に対して「ゲームの中の福岡の女性に対する蔑視があることは、間違いない」と返したい。つまり私がここで問題視しているのは、現実の福岡の女性に対する実害があるかどうかではありません。
ここは重要なところです。
私が問題だと思っているのは、そこに蔑視的な表現があることそれ自体です。それが現実の女性にどのような影響を与えるか、というのは、その蔑視的な表現があることを認めたうえでの話です。そして冒頭にも書きました通り、まずそこに蔑視的な表現がと気づくことが本記事の大きな目的の一つです。『制服カノジョ』には、たとえゲームの中とは言え、現実の福岡を写し取った世界観を採用したうえで、そこに住む一般女性たちをイルカやパンダのように扱う表現がなされている。取り上げるのはそれ自体です。それが現実の福岡の女性にどうこうするかは別として、ゲームの中の女性に対して蔑視的な表現がされているよね、ということを言いたいのです。
もちろん福岡を訪れた個々人が、その内面で福岡美人に期待することは別です。イヤらしい目線だなとは思いますが、ここで問題にしているのは福岡の一般女性を福岡美人と呼んで「見る対象」としてオススメすることであり、個々人の内面レベルで一般女性をどう見るかまでは範疇ではありません。
見られる職業を選んでいるわけでもない一般女性たちを、程度は大きくないかもしれないとはいえ性的な意味が込められた目線で見ることをオススメする。そのとき、そうして見られる側の女性たちの心理はどうでしょうか。私は決していい気持ちはしないだろうと予測します。それどころか、これは彼女らをパンダやイルカのように扱う4ことであり、その意味で蔑視であると考える。たとえそれが実在する福岡の女性に被害を与えるものでなかったとしても、蔑視的な表現がそこにあることは確かである。まずそれに気づくこと。これがここまでの私の主張です。
ではなぜ、一般女性へのそのような扱いがうまれてしまうのか?
福岡の一般女性を、まるでイルカやパンダのように、しかも性的な意味のこもった目線で「見る対象」として扱う表現であること。これが私が考える『制服カノジョ』の「福岡美人」発言の問題点です。

ではなぜ、このような女性蔑視的な表現5がゲームに組み込まれてしまったのでしょうか?
というのも、別に『制服カノジョ』開発チームは、決して女性蔑視的な意図をもってゲームを作っているわけではないと思います。女性を自分たちのゲームにとって都合よく描きはするでしょうが、それは蔑視とイコールではありません。
つまり女性蔑視の意図はないのに、女性蔑視的な表現が入ってしまっている。私はそう思っています。じゃあそれはなぜなのか。この話は、私が記事前半で提示した「なぜ、その本当の問題点とやらを、フェミニストではなく、私にような二次元美少女キャラファンの側から探す必要があるのか?」という問いへの解答にも繋がります。
閉じられたノリのなかで、無意識にうまれるであろう女性蔑視
女性蔑視的な表現が入ってしまうその理由。私はそれを『制服カノジョ』のような美少女ゲームを取り巻く環境が、異性愛男性のための世界として閉じられているからだと思っています。
ビデオゲーム人口の拡大により「女性ゲーマー6」は珍しいものではなくなりました。しかし、それでもまだまだこの業界…とくに国産ゲームを取り巻く環境は、まだまだ、言わば「男ノリ」が根強いように思います。これはゲームに限った話ではないでしょう。国産アニメでも国産マンガでも国産ラノベでも同じだと思います。仮に開発スタッフに女性がいたとしても例外ではありません。異性愛男性にウケるようなコンテンツを目指す以上は、女性スタッフすら「男ノリ」に飲まれてしまうと思います。
では「男ノリ」とは何かといいますと、これは様々な形が考えられます。その一つであり、ここで想定しているのが、女性を自らの性欲の対象として楽しみ、そのとき、そのような対象とされる女性側の人格を考慮しないこと…です。これはちょっと言語化が難しいので、今後私の中でも整理していく必要があると考えています。ここでは単純に「女性側の気持ちと無関係に、その性的な表現を、性欲に純粋に楽しむノリ」くらいに捉えてもらって構いません。後に訂正するかも。
例えばですが、異性愛男性のみなさんは、性暴力関連のニュースを見て笑ってしまったことはないでしょうか。具体的には通学路に露出狂が出たとか、どこかの偉い人がエスカレーターで盗撮をしたとかを聞いて、思わずクスっとしてしまうような経験です。おそらく多くの異性愛男性にはあると思います。しかし当然ですが、これらは全く笑い事ではありません。でも笑える。つまり我々異性愛男性の間には、どこか性暴力を軽く見て「面白いもの」とすら扱ってしまう男ノリがある。その延長線上に上記のようなノリがあると思っています。

そういうノリの環境では、時に無意識のうちに女性蔑視的な考えが表出し、かつそれに誰も気づかない可能性があると思います。その環境が特に異性愛男性に性的な満足感を、サービスまたは主目的として与えることを目指す場面では、傾向はいっそう強くなるでしょう。女性を性欲の対象として従順な存在に描こうとすればするほど、当の女性自身の人格は無視されることになりやすいからです。
更にこの環境は大きく身近です。だからいつの間にかその内側に入っていても、それに気づけないことがあると思います。そうして輪の中にいるうち、ノリは知らず知らずのうちにコンテンツの創作者にも受容者にも「普通のこと」として内面化されていく。美少女コンテンツファンはもちろんこの内側にいます。当然、私も含まれます。それは『制服カノジョ』開発チームもそうであると思っています。だからこそその中にある女性蔑視的な「福岡美人」の表現に気づくことができなかったのだと考えています。
その表現がノリの内側に留まっているうちは、ほとんどだれも気にしない。しかしノリの外側では、これは普通のことではありません。そして炎上する。この実例が『たわわ』や『ビートリフレ』ではないかと思っています。
このとき、表現のどこに問題点があるのかをお互いに分かっていればよいのですが、私にはそうではないように見えます。なぜか。ノリの内側では、それは「普通のこと」だからです。もちろん18禁になるような分かりやすいものの場合だったら明白でしょう。しかし「普通のこと」として無意識になされている蔑視などである場合、問題であるとすら思われない。だから表現する側、擁護する側にとっては、炎上した表現に対して「これが問題になるとは」という驚きの感覚が生まれることがあると思います。
例えば私が上で例示した『制服カノジョ』の件は、どれだけの方が私と同じ問題意識を抱いていたでしょうか。何だか手前味噌のようで恐縮ですが、ほとんどのプレイヤーにとって、それが蔑視的な問題を含む表現だと認識すらされていないのではないかと思います。「これがそんなに問題か?」と思う人が多いと思います。だからこそ難しい。

美少女キャラはあまりに身近になりました。世は私たちの性欲に訴えかけようとする美少女キャラだらけです。だから私たちは、炎上したとしても、その表現のどこに問題があるのかを掴めない。あるいは大雑把に「エロいから問題」だとかになってしまう。しかしこれではだめです。テレビCMや異性愛女性向けマンガなどあらゆる表現を巻き込んでしまうからです。これでは議論の収集がつかなくなる。
そのとき美少女コンテンツ擁護者側から切られるカードが「表現の自由」や「現実の被害者の不在」などです。これらはあらゆる表現を守り得る万能の防御カードです。万能すぎて、具体的に何が問題なのかを考える態度を奪ってしまう。そしてどう守ろうが、あるいは隠そうが、そこに蔑視的な表現が入っていることが変わるわけではありません。ならば当人たちが気づかない限り、その蔑視は無視され続けることになりうる。
また私は、表現を問題視する側すらも、その表現の具体的な問題点を掴めていない場合が多いのではないかと思っています。
そうしてお互いに問題点を把握できていないため、建設的に話し合われることはありませんでした。その結果、議論は「キショい」のような個々人の不快感7レベルでの話になってしまうか、あるいは表現の具体的な問題点を無視したうえでの「表現の自由で守られるか否か」という巨大すぎる論点に飛んでしまう。結果、解決どころか何が問題だったのかすら明らかにならないまま、おたがい疲れて解散です。

最悪なのは、解決法として炎上コンテンツのキャンセルが行われることです。これは特に強調しておきたいのですが、私は安易なキャンセルには断固反対です。問題点を明らかにしていないのにキャンセルを訴え実行されれば、それで解決したような気分になってしまうからです。それでは本当に議論すべきである表現の話が覆い隠されてしまいます。また、開発チームもノリの内側にいて、その蔑視的な表現に気づくことができなかったのであれば、それを直ちに悪することはできません。だから彼ら彼女らを悪者としてイタズラに責めること自体にも反対です。悪者を決めて抹消するのは分かりやすいですが、それでは前進しません。
では、何を求めるのか。この記事は何を狙うのか。
ここで話は冒頭に戻ります。この記事が促そうとしているのは、言わばその問題への「気づき」です。
あらゆることが「気づき」から始まる
ノリの内側にいるがゆえに問題のある表現を問題だと認識できず、それが外に出たとき、炎上し、議論になるが、そのとき具体的な問題点の話にはならない。
ならば双方が目指すべきは、まずその問題点に気づくことである。私はそう思います。
これは冒頭で出した「なぜ、その本当の問題点とやらを、フェミニストではなく、私にような二次元美少女キャラファンの側から探す必要があるのか?」という問いへの答えにも繋がっています。
もしその問題点に私たちが気づければ、建設的な議論に近付くことができます。「キャンセルするか否か」ではない、本当に話すべき表現の話を始めることができます。
また、その内面化を防ぐことにも繋がります。ある表現が、ノリの内側だからこそ通用する表現なのだと気づくことができれば、その表現をノリの中で楽しみつつ、しかしこれは現実を無視した私たちを満足させるための表現なのだと自覚し、それを当たり前のものだとは思わない…そういうことが可能になります。
更にもう一つ、巨大な話にも繋がります。すこしスケールの大きい話をしてみましょう。
「フェミニズム」という運動があることは、皆さんご存じだと思います。これは女性のための運動みたいに思われがちで、実際に女性を中心に行われてきたものですが、その本質はあらゆる人が差別や抑圧を受けずに生きられる社会を目指すことです8。特にSNSではフェミニズムを男性VS女性の図式で捉えがちですが、これは全然違います。本来フェミニズムは男性のためのものでもあり、当然LGBTQ+の人たちも参加しながら行われるものです。

その中心はかつて女性の参政権、女性の社会進出などでしたが、近年はポップカルチャーやメディア上での女性表象もその一つになっています。最近だと「赤いきつね」のCMがこの関連で話題になったようです(この時期、私はSNSのトレンドを意図的に無視していたので詳細を知りませんが…)。
そして上記の男ノリが強い美少女コンテンツ界隈は、フェミニズムで問題視されるような女性表象が繰り返されやすいと思っています。それはこの界隈が異性愛男性の性欲を満足させることを強い目的とする場合が多いからです。
わたしたちはノリの中にいるため、そのような表現が、問題のあるものだと認識できない場合があります。今回の『制服カノジョ』の話がまさにその一例です。
これを踏まえて私が危惧しているのは、私たちが美少女コンテンツファンが、知らず知らずのうちにノリを内面化し、気づかないうちに女性たちを抑圧あるいは差別、蔑視する側になってしまっているのではないか?ということです。
しかし「気づき」さえ得れば、これを防止することができると思います。なぜなら、上でも書きましたが、問題のある表現だと気づいているならば、受容しつつも当たり前として内面化せずにいることが可能だからです。皆さんも「これを現実でやったら当然アウトだ」という意識を持ちつつ、一方でその表象を楽しんだ経験はあると思います。その意識のレベルを引き上げることができる。
私は、自分自身が美少女コンテンツを愛好する者として、正にそのコンテンツ自体を自ら見直す必要があると思ってます。そこに潜む蔑視などに私自身が鋭敏な感覚を向け、自ら気づいたときこそ、その蔑視の内面化を防ぎ、問題点と認識し、ではどうすれば良いかを話し合うことができるからです。もちろんその解決法はキャンセルとは限りません。私は安易なキャンセルは反対です。だから私は、こんかい話題にした『制服カノジョ』も、いまさら販売停止しろとかそういうことは一切考えていません。これからも元気にシリーズを続けてほしいと思います。
その「気づき」の先では、ひょっとしたらフェミニストと美少女コンテンツファンが手を取り合うことができるができるかもしれません。問題のたびにいがみ合うのではなく、お互いがお互いの気持ち、権利を慮り、安易なキャンセルに逃げない、本当の意味での解決が可能であるかもしれません。
あらゆることは「気づき」から始まる。だからそれを、この記事から始めてきたいと思っています。

【終わりに】差別なき世界は無理でも、小さな変化を目指すことはできる
差別なき世界を目指す…。
…というのは、さすがに場末の個人ブログが掲げるには過ぎた目標です。こんな場所で何を吐き出したところで、世界は決して変わりません。しかしそれでも、少なくとも私は変わることができる。つまりノリの外に一歩出た上で作品を見ることができるようになり得る。それは「普通のこと」として見過ごされていたものを改めて見つめなおすことでもあり、曇りのない目で作品を見ることにも繋がります。結果的には美少女コンテンツを深く理解することにも直結するでしょう。そのような表象を楽しむなとか、批判しろとか言いたいわけでもありません。気づくことができれば、今までと変わらず楽しみつつも、新たな視点をもって作品を見ることができるようになると思っています。
そして、こういう立場をとろうというならば、私も本腰を入れてこの問題の勉強を始める必要があると考えています。
前半の自己紹介でも書きましたが、さんざん偉そうなことを言いながら、私はジェンダー問題やフェミニズムを専門に勉強したことはありません。簡単な本を何冊かめくった程度です。ですがこうしてデカい問題に言及しようというならば、今後はもうちょっと真面目にやります。同時に、美少女コンテンツも変わらず受容し続けます。これをやめるつもりはあんまりありません。ただし、それは可能な限りの「気づき」の上で、です。
その過程で得たものを、今後も当ブログで共有し、私自身の考えも常にアップデートしていければと思っています。
- この流れで「フェミニスト」という言葉を用いることに不快感を覚える方もいると思います。私も適切な表現ではないと思っています…が、分かりやすさ重視のためこの表現を使いました ↩︎
- 実際はもっと多様な主張がありますが、ここはデモンストレーション的に事例を提示するだけなので、その一部を抜粋しています ↩︎
- 『ビートリフレ(旧マッサージフリークス)』は発表当時、作中の女性キャラの名前が実在のアイドルから取られていることが明らかであり、これが炎上の理由の一つでした。後にキャラ名を改めた上で発売されています ↩︎
- この論法だと、じゃあ人間はパンダやイルカを蔑視していることになるのか?という問題点が浮上するかもしれません。これは恐らく道徳哲学や倫理学の領域の話であり、今の私に言及できる問題ではないと思っています。ただ今言える意見を言えば、蔑視ではないと思います。パンダやイルカは人間と同じ程度の人格を持っているわけではないため、見られる対象として扱われることが人間と同じ程度の重みをもっていないと思うからです ↩︎
- これに対して「そもそもそんな問題は発生してない」という反論もあるかと思います。この先はその反論の可能性を無視した上で、発生しているということを前提に書いています ↩︎
- 「女性」と括ること自体が既に男性中心であることを表すことになってしまう可能性もあるため、注意が必要な表現です…が、ここでは意識して女性でありかつゲーマーである人に絞って語りたいため、女性ゲーマーと呼称しています ↩︎
- 決して個々人の不快感を軽視する意図はありません。ただしある表現を良くないものとして糾弾する場合、その根拠として個々人の不快感を用いるのは難しいと思っています ↩︎
- この辺りの「フェミニズムとは何か」の参考文献として「基礎ゼミ ジェンダースタディーズ / 世界思想社」を用いています ↩︎