【everlasting flowers】シナリオの気になるところ。深菜は何を乗り越え、何を解決したのか?

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この記事は約17分で読めます。

これより下はネタバレがあります。

深菜の2種の課題の混同。深菜は結局メイクで何を解決したの?

まず最初の点は、物語序盤、蘭が深菜にメイクをするシーンです。ただこのシーンは前書きで書いた変化云々とはちょっと関係が薄いです。違和感のあるシーン…くらいの感覚です。

対象のシーンはゲーム序盤。制服を着るのを嫌がる深菜に蘭がメイクを施し、それにより深菜がそのトラウマを乗り越える場面です。

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このシーンにはおかしな点があります。それは深菜が抱える2種類の課題が混同されてしまっていることです。

この時点の深菜は2種類の課題を抱えていて、蘭によるメイクはその片方しか解決していません。であるのに、物語上はまるでどちらも解決したかのように見えてしまっています。これが物語に矛盾を生んでいます。

深菜の2種の課題…制服を着たくないことと、ホールに出たくないこと。

そもそも、私のいう2種類の課題とは具体的には何のことか。それは以下の2つです。

1.学校のことを思い出してしまうから制服を着たくないのに、着なきゃいけない
2.不安だからホールに立ちたくないけど、立たなきゃいけない

深菜はこの2つの課題を抱えており、それぞれを別々に解決していく必要がありました。であるのに本作は、蘭によるメイクにより、この2つを同時に解決したかのように描いてしまっています。これが奇妙な矛盾を生んでいます。

まず制服を着ることに関して。深菜は制服の着用を頑なに嫌がります。その理由は学校でのことを思い出してしまうからでした。深菜にとって学校で心無い言葉を聞いたことは辛い経験であり、制服を着ると否が応でも思い出してしまう。だからこそ、制服を着るのをあれだけ嫌がりました。

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つまり深菜にとって、制服を着ることはそれ単体で嫌なことです。これはホールに立つこととは全く別別です。草むしりだろうが買い出しだろうがトイレ掃除だろうが、制服を着ることは深菜にとっては辛いことです。

そしてこれと独立して、ホールに立つという課題も抱えていました。人前で明るく振る舞えない深菜にとって、直接お客さんとやり取りするホールの仕事は不安が大きかった。それでもはいつかはホールに立たねばならない。

このように、ホールに立つことと制服を着ることは、それぞれ全く別の事柄として深菜の中に存在していました。

しかしご存じの通り、深菜は最終的に制服を着ますし、ホールにも立ちます。つまり上記の独立した2つの課題を乗り越えたことになります。ではそのきっかけは何か?

もちろん、蘭によるメイクです。

メイクは二つの課題をどちらも解決したのか?

深菜は蘭のメイクにより制服を着て、更にホールにも立つことができました。つまり深菜はメイクで制服により思い出すトラウマを克服し、同時に不安に負けない強い気持ちも獲得したことになります。…が、本当にそうでしょうか?

私はこれをおかしいと思います。
なぜなら、もし深菜が過去のトラウマをメイクによって克服したのならば、その後のシーンで学校を恐れていることに説明がつかないからです。深菜はメイクによってトラウマを克服しました。ならば深菜は今後、学校でのことに勇気をもって立ち向かえるはずです。しかし実際にプレイしてみれば明らかなように、深菜は変わらず学校での日々を恐れています。これはおかしいです。その恐怖はメイクによって克服したのではなかったのか?あるいは恐怖は忘れられずとも、メイクによる武装で戦えるだけの勇気を得たのではなかったのか?

まくしたてましたが、要はメイクによって制服を着られるようになった=学校でのトラウマを克服した、もしくは戦う勇気を得たのとするのならば、その後のシナリオと矛盾が発生してしまうのではないか、ということです。

ではなぜ、こんな問題が発生したのか?
これは深菜が抱える課題を混同していることが原因です。あるいは混同してはいないのだけど、まるで混同しているかのように読み取れるシーンになってしまったのかもしれません。

深菜は上記の通り、制服とホールの2種の課題を抱えていました。そして蘭によるメイクが解決したのは、この後者。つまりホールに立つ不安の解消のみだったのだ…と私は考えています。というかそうでないと説明がつきません。だからこそ深菜は後のシーンで学校でのことを変わらず恐れていて、それでいてホールの仕事は元気よくこなせるのでしょう。

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しかしホールに立つには制服を着なくてはいけない…という本作の設定が、この混同をもたらしてしまったのだと思います。メイクによって解決したのはホールの不安のみです。なのにそこには制服の着用もセットでついてきますから、まるで深菜がトラウマを克服しつつ、しかもホールにも立てるようになったかのように見えてしまっている。実際は制服を着つつもトラウマを克服できてはいません。だから後のシーンでは当たり前のように学校でのことを恐れています。

このとき、それはメイクによって解決したはずなのでは…という疑問が浮かんでしまいます。解決したはずの課題が、解決できていないものとして立ちはだかる…これは明らかに不自然です。

あるいは、深菜は制服を着ることと学校でのトラウマを切り離せるようになったのだ…と捉えることもできるでしょう。しかしそのような複雑な内面の変化は、少なくとも私は読み取れません。

メイクによって不安に立ち向かう…というのは良いと思います。外見の変化一つで人はけっこう変わってしまうものでしょう。本作の強みであるビジュアルを存分に発揮している場面だとも思います。しかしそこに制服着用が付随してしまったことで、メイクが何を解決したのかが不明瞭になった。そう考えています。

深菜の課題は、ラソンブレの経営改善…?

ここからが本番です。

記事前半では、本作は深菜に対して与える課題を誤っている…と書きました。ではその課題とは具体的に何で、どのように誤っているのか。私の考えを書いていきます。

問題がはっきり表れるシーンはゲームの中盤。深菜とミチコが対話する場面です(エンディング付近の方ではありません)。

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このシーンでは、深菜とミチコはヒマリにペンションを継がせるべきかどうかについて話し合います。結果、深菜は自身の誤りを認め、ミチコに謝って対話は終了します。

…が、このシーンには問題があります。それは、本作が描く筋とは別の課題が立ち上がってしまっていることです。

具体的に説明します。

本作が描くのは、深菜の内面の成長…なのに?

確認しておきたいのは、本作が描こうとしているのはあくまでも深菜の内面の話である…ということです。

深菜は物語から与えられる課題により、内面で何らかの成長を遂げて新たな日常へと歩みだす。ならば、深菜に与える課題は内面の成長を促すものでなくてはならないでしょう。

しかしこのミチコとの対話の場面では、内面とは全く別の課題が立ち上がってしまっています。これが問題です。

引っ掛かるのは、あの時点の深菜の目的が「ラソンブレにずっと置いてもらう」だったことです。しかしラソンブレの経営状況は決して芳しいものではありませんでした。だからこそミチコは、ヒマリに継がせる意思はないと言います。

こうなってくると、深菜の乗り越えるべき課題として「ラソンブレの経営難をいかに解決するか」が出てきます。ラソンブレ経営改善という筋が立ち上がってしまいます。深菜の目的を阻む壁を経営難にしてしまったなら、これは自然なことだと思います。

であるのに本作は、この「ラソンブレ経営難」の課題には最後までノータッチです。これが物語上の課題とその解決、これに伴う主人公の変化、目的の達成の関係を不明瞭にしてしまっています。

物語全体としては、深菜の内面にクローズアップしたかったのだと思います。本作は経営サクセスストーリーではなく、内側の成長を描こうとしていることは明白です。だから深菜の内面に根差す課題を立ち上げたかった。しかしその過程で「ラソンブレ経営難」が出てきてしまったこと、そしてこれを解決することなく終わってしまったことが問題で、深菜が一番大切な課題を乗り越えられないままエンディングを迎えてしまったような違和感を残してしまったように思います。

これでは主人公の目的、課題、成長…これら綺麗に繋がらないと思います。そしてこれは物語の根幹部分です。

更にこのシーン、対話の運び方にも無視できない問題が見られます。

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課題転換のためか、変な考え方をする深菜

この対話のシーン、深菜は最終的に「自分がちゃんとしていないのに、人の夢に口を出すべきじゃなかった」みたいな反省をします。

私はこれを変な考え方だと思います。なぜ自分のことをちゃんとしてないからといって、人の夢に口を出してはいけないのでしょうか。

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深菜はああして謝っていますが、しかし人が人の夢に口を出すことに、自分がちゃんとしているかどうかは関係ない。別にだらしない人でも口を出していいはずです。不登校だろうが血が繋がっていなかろうが、思ったことを自由に発言して良い。もちろん他人の夢よりは自分自身の生活を大切すべきなので、その意味では自分のことを優先した方が良い場合が多いでしょう。しかし、だからといって口を出してはいけないなんてことはありません。

深菜の問題は、ペンションを継続させるための具体案無しに、しかも血の繋がりに言及するという誤った方向でミチコを言いくるめようとしたことであって、自分のことをちゃんとしていないのに人の夢に口を出したことではありません。

深菜が自身の内面へと目を向けるようにとこのような話運びになったんだと予想しますが、そうだとすればなかなか強引です。

深菜は、自分で決められないのか?

次に取り上げるシーンはゲーム終盤、サナミとミナの対話シーンです。

ここでも深菜はミチコや蘭にしたのと同じ「ラソンブレをヒマリに継がせてやりたい」という質問をします。しかしサナミは深菜に厳しい言葉をぶつけます。ですがもっともな反論でしょう。どれだけ声高に理想を掲げたところで、現実への対抗策がないならそれは白昼夢に終わります。

ではサナミの言葉に対し、深菜はどのような反論をするのか。
このシーンの問題点はここから先にあります。

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深菜は逃げているのか?

「続けるという現実と、続けたいという理想は別」

サナミの厳しい言葉に、深菜はミチコの時と同様、論点をずらすことで言いくるめようとします。

「私には夢を見ることも許されないのか。大切な人のために何か行動してはいけないのか?」

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これは明らかに曲解です。サナミは真っ当な現実の問題を指摘しただけであって、夢を見るなだとか行動をするなだとかまでは言っていません。しかしあろうことか、サナミはこの深菜の反論に乗っかってしまいます。

「だめよ」

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……?
一体、なぜダメなのか?

この疑問から、このシーンの問題点を考えていきます。

前述の通り、サナミは深菜の「夢を見てはいけないのか、行動してはいけないのか」という質問に対し「ダメ」と返答します。その理由は「深菜は人の夢に逃げているだけで、それは夢でなく逃避だから。そして自分の人生に責任を持てない人間にできることはないから」と言います。

私はこのサナミの意見は、間違っていると思います。

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そう思う理由は、まず第一にこの時点の深菜は決してヒマリの夢に逃げているわけではないと思うからです。

サナミ曰く、深菜は「家に帰る」という現実を見たくないがためヒマリの夢に乗っかり、それを逃避先にしているそうですが、この時点の深菜にそういう逃避の気持ちがあるようには見えません。

逃避とは逃げることです。ではこの時点の深菜は、果たして何から逃げているのでしょうか。家に帰ることでしょうか。学校へ行くことでしょうか。確かにどちらも重要なことではありますが、しかし必ずやらなくてはいけないことでもありません。ならばそれを避けることは逃避とは言い切れない。あの時の深菜はラソンブレに逃げ込もうとしているのではなく、むしろそこで花を咲かせようとしているように見えます。

以前のミチコとの対話シーンでの深菜は、内心に打算を抱えていました。ヒマリの夢に乗じてやろうという気持ちがありました。しかしこの時の深菜は自分自身がラソンブレが好きで、ここに残りたくて、そのために何かしたいとはっきり言っています。私にはこれが逃避だとは思えません。

サナミは「何かに頼ろうとしている限りは逃避」とも言いますが、深菜はろくな具体案を出せないとはいえ主体的に何かをしようとは思っていますから、ラソンブレを新たな頼り先としているわけでもないと思います。就職先として身を寄せることすら何かに頼ることだとするなら話は別ですが。

深菜は訪れた当初こそ「ここではないどこか、私の居場所へ行きたい」と考えていました。ですからラソンブレそのものにはそれほど思い入れはなかったのでしょう。そもそもの深菜の目的は居場所を探すことだったので、ぶっちゃけラソンブレである必要はなかったはずです。

しかしミチコと対話する頃には「ここじゃなきゃ嫌だ」と思っていることがはっきりと示されます。つまり都合の良い逃避場所を見つけたというよりは、新しく花を咲かせたいと思える新天地を見つけた。私にはそう読み取れます。もちろん解釈は人それぞれです。しかし深菜が現実から逃避しているのではなく、むしろラソンブレという新たな居場所へ向かってむしろ前進すらしているように感じるのは、決して強引な読み取りではないとも思っています。

つまり「深菜はヒマリの夢に逃避しているだけだ」というサナミの批判は、少なくともこの時点の深菜にはもう当てはまらない。だからサナミの発言は間違っている。そう考えています。

もう一つ疑問が浮かぶ発言は「自分の人生に責任が持てない人間に、何ができるというの?」という深菜への問いかけです。

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ここで気になるのは、果たして深菜は自分の人生に責任を持てない人間なのだろうか?ということです。

そもそも、自分の人生に責任を持つとはどういう意味なのか。この後の話から察するに「私の人生の選択を私自身の意思で決める」みたいなことだとは思いますが、そうだとするならこの時点の深菜は、ラソンブレに残りたいという意思を自分の意思で決めていますから、サナミの指摘は当てはまらないと思います。家に帰るのがイヤだからラソンブレに逃げているのであれば、なるほど流されるまま、自分の意思で決めずにフラフラとしているだけのように見えるかもしれません。しかしこの時の深菜は違います。

夢でなく逃避だからダメ。
自分の人生に責任を持てないからダメ。

サナミの意見はどちらも間違っている。私はそう思います。

そもそもの話、仮にサナミのいう条件をクリアしたところで、結局最後にはラソンブレの経営難という課題が立ちはかるのですから、これに有効打を出せない以上、深菜はどん詰まりです。課題が上手く機能していません。

そもそも深菜は、自分で決められない人物だったのか?

最後は物語の結末部分についてです。

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深菜は物語の終わり、自分で決められる人物へと変化します。蘭との対話で、自分のことは自分の意思で決めていいのだと気づいた深菜は、新たな気持ちで家へと帰っていきます。

私はこの結末を、良くないと思っています。直前のシーンだけを見ると悪くはありませんが、オープニングから全て繋げて見た場合、違和感が残ります。

なぜなら、そもそも深菜は「自分で決める」が元々できているからです。加えてもう一つ、深菜が抱えていた課題は「自分で決める」ことでは解決されないと思うからです。

解説します。

自分で決めてるじゃん

深菜は蘭との最後の対話で、自分のことを自分で決めて良いのだと気づきます。これにより深菜の内面で何かが変化し、あれだけ嫌がっていた家に帰ることも受け入れられるなりました。この変化が、深菜が物語を通して得た大きな成長だと言ってよいでしょう。そのように描かれています。

が、これにはいくつかの疑問が残ります。

まず第一に、深菜はそもそも自分で決めることができない人物だったのでしょうか?
私にはそうは思えません。

そもそもの話、深菜はラソンブレへ来ることを自分で決めています。そしてラソンブレに残りたいという意思も、彼女自身の決めたことです。

ただ一方で、確かに深菜は転校先などを親の勧めに従って決めてしまっています。とはいえ当時中学生だった深菜に見知らぬ土地での学校選びは難しいはずですし、上品なお嬢様学校と聞けば普通は悪いイメージは浮かびませんから、勧めに従うのは自然なことです。あの時点での深菜に何らかの落ち度があったとは思えません。

自分のことを自分で決められる人物へと変化したということは、逆に言えばそれまでは決められない人物だったということです。しかし深菜は上記の通り、自分のことを自分で決められない人物ではありません。結末にこのような変化を置くならば、自分のことを自分で決められない深菜の姿をもっと印象付けるべきです。

あるいは、蘭の「私のことを決めるのは私」という考え方を指し、深菜も同様の理論で行動できるようになったのだ…と見ることもできるかもしれません。…が、私はこれも苦しいと思っています。「自分で決める」に気づいた直後の深菜のセリフを見れば明らかなように、この変化はあくまでも行動のレベルでの変化だからです。内面における「人に何を言われても気にしなくていいんだ」みたいな変化ではありません。加えて、仮に内面の変化なのだとすれば、深菜があの時点で「自分で決める」にようやく気付いたかのようになされる演出も不自然です。蘭の自分のことは自分で決める姿を、深菜はずっと見ているのですから。

つまり、そもそも深菜は自分で決められない人物ではなかった。そのように見える。ですから当然、最後の変化が「自分で決められる人になる」なのは不自然です。

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自分で決めて、深菜の課題は解決されたのか?

もう一つの問題は、例え「自分で決める」をしたところで、深菜の抱える課題は解決されないことです。

そもそもの話、深菜が当初抱えていた課題は「自分の居場所を見つける」ということでした。深菜は居場所を探してラソンブレに辿り着き、結果、ラソンブレにいつまでもいたいと思うようになりました。

ではこの「居場所を見つける」は「自分で決める」によって解決されたのでしょうか?


されていません。自分で決めようが何だろうが、決めた先で居場所を失うことは十分あり得ます。つまり本作は、物語の最後に辿り着く答えが、深菜の抱く欲求を満たせていないのです。これは大きな問題だと思います。

深菜があの学校で居場所を失ったのは、深菜が自分で決めなかったからではありません。同級生の心無い言葉が原因です。

ただし、深菜は家の中でも居場所を失ったと感じています。これに対しては一定程度「自分で決める」が有効だと思います。学校へ行けない=引きこもるしかないという深菜の思い込みを変える考え方だと思います。深菜は自分の身の振り方を可能な範囲で自分で決めて良いことに気づいた。とはいえ、結局自分の意思でラソンブレに来れているのですから、これにもやはり話が回っているような違和感は残ります。

深菜は最後「自分の意思でラソンブレに戻ってきたいと思ったら、戻ってきてもいいんだよね」と発言します。何かに気づいたように言います。


しかし深菜はそもそも、現時点で自分の意思でラソンブレに残りたいと思っています。そして自分の意思でとんぼ返りしたところで、ずっと棚上げにされている課題「ラソンブレの経営難」が立ちはだかりますから、これでは結末は片手落ちではないでしょうか。学校に戻っても良いし、別の場所に行ってもいいでしょう。ですがそこで深菜の居場所は見つかるのか。仮に見つからなかったとしても、自分で決めたんだから自分の責任ってことで納得して終わるんでしょうか。

最後に置いた主人公の変化で、主人公の課題を解決できていない。これもやはり大きな問題点だと思います。

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誤った課題と、満たされない欲求

ようやく、記事前半で書いた主張に辿り着きます。

本作は深菜の欲求、それに立ちはだかる課題、課題をこえることによってする成長、成長前後の深菜の姿…そのようなものが上手く噛み合っていない。これが私の考えです。

ラソンブレの経営難という課題が立ってしまったこと、この課題から深菜の内面への課題への転換に強引な理論が見られること、深菜が当初抱えていた欲求と、最後に遂げる変化が結びついていないこと…遊び終えた今、いくつもの疑問が残ります。

もちろん本作には良いところもあります。
本作はシーン作りに力が入っています。情動を煽るBGMと細かい一枚絵と差分の挿入による視覚面での情報提示、内面の描写を意識したであろうテキスト(本作の文学的な部分は主にこの辺を言っているんだと思う)。シーン1つ1つはプレイヤーの情動を刺激する力を多分に持っているでしょう。全体との繋がりなど意識せず、その場その場のシーンをシンプルに楽しめば、なるほど本作は素晴らしい作品と言えるかもしれません。

私は別にこういう遊び方をダメだとは思いません。むしろこれが一番多数派の遊び方だと思います。論文じゃないんですから、全体から見た部分だとかそういうものでなく、もっとそれ単体から受ける印象を大事にするのもアリです。

とはいえ、結局シナリオ上の問題点は情動の昂ぶりにマイナスの影響を与えます。ヒーローが悪役をやっつける時に「ヒーローの方が悪いことしてね?」となってしまったら、受け手は楽しめません。

本作はその問題を抱えており、かつこれは物語の根幹部分に関わるため、決して小さいものではないと考えています。

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