【岩倉アリア】レビュー・評価&考察 過程は良いが結末は安直。考察もやってみたよ。

3.5
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これより下は真相までのネタバレを含んでいます

考察:アリアと周、そして宗助の過去について。

本作はいくつかの考察要素を含むゲームです。ここでスポットを当てるのは、アリアと周、そして庭師として働いていた宗助。この3人の過去に何があったのか…という点です。考察というよりは、描写から恣意的に解釈していくと自然とこうなるよね…くらいの論かもしれません。

また考察でありますから、いくつもの恣意的な解釈を含んでいます。考察ってのはそういうもんです。

結論から言います。

アリアは出産しています。
父親は宗助です。
周はその子を連れ去り、教会に預けました。

こう言える証拠を提示していきます。

アリアが出産している証拠

アリアが出産している証拠は、作中いくつも示されます。これはほぼ確実だと考えています。

証拠1:帝王切開と思われる傷跡

エピローグも兼ねるサイドストーリー部分で、アリアは壱子にお腹の傷跡を見せています。へその下、縦に線状の傷跡が確認できます。これは帝王切開の傷跡と考えられます。

ヘソの下に縦線状のキズがあります

帝王切開をしているなら、妊娠出産をしていることは確実でしょう。

また作中アリアは、1949年の年末、大怪我をして、それをきっかけに不死の体質になったと言っています(正確にはそこで気づいた)。この大怪我とは、帝王切開手術をぼかした表現だと解釈できるでしょう。

証拠2:1949年のへその緒

作中、掃除をしている壱子がアリアの部屋で、へその緒を発見するシーンがあります。このへその緒は一体誰のものだったのでしょう?

この時点での壱子はアリアと自分が同い年だと勘違いしているため、1949年という時間関係から、これはアリアが生まれた時の、アリアと母親のへその緒だと考えます。しかし後に明らかになるように、アリアは壱子よりずっと年上です。そうなると、これは一体誰の物なんでしょうか。

アリアとその子のものだと考えれば、自然な説明がつきます。

また1949年という生年は、前述のアリアの“大怪我”とも時期的に重なります。

証拠3:アリアの壱子に対する、子どもに接するような態度

特に物語の序盤、アリアは壱子に対し、子どもに接するような態度を見せます。壱子の手を「赤ちゃんのようだ」と言ったり、壱子にオシャレをさせて楽しんだり、壱子の足を「あんよ」と言うシーンもあります。

このアリアの態度は、まるで母が子に接するそれに見えやしないでしょうか?
少なくとも16歳の女中に対する態度としては不自然です。

しかし、アリアが壱子に我が子の姿を重ねていたのだと考えれば、筋が通ります。

またアリアは壱子とのキスを頑なに避けますが、それもこれで説明がつきます。

宗助が父親である証拠と、周がそれを連れ去った証拠

前述の情報から、アリアは1949年に出産している可能性が高いことがわかります。ではその父親は誰で、その子は今どこにいるのでしょうか。

結論を繰り返すと、父親は庭師の宗助です。子は周が連れ去ったうえ、教会に預けてしまいました。証拠を提示しましょう。

証拠1:宗助のサイドストーリー内での記述

サイドストーリーでは物語の深部に関わるであろう内容が、抽象的に語られます。その描写に、いくつかのヒントがあります。

例えば以下は、宗助のサイドストーリー内の記述です。

怖かった。俺は知っていた。その腹に宿ったものの正体、彼女が聖母などではないことを。(中略)死ぬまで許されなくとも、死ぬまで彼女のそばにいたい。大好きだった。今も変わらず、愛している。

『岩倉アリア』 / MAGES. より

ここでは聖母が懐胎=妊娠したことが語られます。この聖母とは言わずもがなアリアのことでしょう。そして宗助は、その腹に宿ったものの正体を知っていると記述されています。他でもない宗助が父親だからこそ、その正体を知っており、聖母などではないと言えるのもの、自身との交わりによって子ができたことを知っているからでしょう。

決定的なのは、「死ぬまで許されなくとも~」の記述です。宗助はアリアを愛しており、そして許されない何かをやった。それが16年前の1949年の過ちです。作中の描写から、アリアと宗助に何らかの関係があることは明らかでした。その真相は、つまりそういうことです。

証拠2:周のサイドストーリー内での記述

宗助が父親であることを更に裏付けるのは、周のサイドストーリー内での記述です。引用します。

氷点下の夜、私は小さな生命を手に抱え、車道の真ん中を駆けていた。どこで間違ったのか、何を見落としたのか。使用人から右腕へ。何ひとつ手を抜くことはなかった。(中略)しかし私は、怪我ひとつなく、教会の裏口に辿り着くことになる。罪を犯すために生かされたのだ。(中略)そこに温かい子を預け、あの子にはその子が冷たくなったと告げる。君は誰かと出会った。そのために罪を犯し、罰を受ける。

『岩倉アリア』 / MAGES. より

周が抱える小さな生命とは、そのままアリアと宗助の子です。

また周はアリアが誰かと恋仲になってしまわないよう、手を抜くことなく監視していたのでしょう。宗助というイレギュラーがこれを崩した。君は誰かと出会った…という記述は、アリアと宗助が出会ったことを指しています。その罪とは子を成したことで、その罰とし不死性を得た。

これらの記述から、周が子を連れ去り教会へと預けてしまったことも明らかになります。そして周は、その子は死んだと告げたのでしょう。

氷点下の夜というワードもポイントで、これはアリアが大怪我=帝王切開をした時期である1949年の年末と繋がります。

また周は作中、アリアと壱子の関係が深まったことに気づいたとき「子ができる心配はない」と発言します。これはかつて、宗助とアリアの間にあった出来事から出た発言だと読み取れるでしょう。周の部屋から見つかる赤ちゃん用の靴下も、これに関連するものでしょう。

以上の事柄から、アリアは過去に出産しており、その父が宗助で、周がその子を連れ去って教会に預けてしまったことが読み取れます。

考察はここで終わりです……としてもいいんですが、ここから先、おまけのおまけとして、更に飛躍した論を展開します。ただし、絶対に信じないでください。これより下の話を信じてはいけません。了解出来たら読み進めて下さい。

考察:壱子は、アリアと宗助の娘である

壱子は、アリアと宗助の娘である可能性があります。ただこれはあくまでもエンタメ、そうだったら面白いね程度の認識でお願いします。間違ってもこれを真実だと信じ込むことはしないでください。上杉謙信女性説みたいな話です。

論拠を示します。

壱子がアリアと宗助の娘だと言える証拠

証拠1:壱子も宗助も、絵が上手い

壱子は誰にも教わっていないにも関わらず、絵がとても上手であることが示されます。更に作中もう一人、同じように絵が上手であると示される人物がいます。宗助です。

一度だけ、宗助が手慰みに絵を描くシーンがあります。このときアリアは「相変わらず上手」と発言します。

相変わらずと言うからには、宗助は幼いころから絵が上手だったのでしょう。そしてその才能が、壱子に遺伝したのです。だから壱子は、教わりも練習もしていないのに、絵が上手いのです。

因みにアリアが壱子の絵の才能にあれだけ惹かれたのは、宗助との思い出が根源にあるのだとすれば、これに説得力が出てきます。レビュー内でアリアが壱子に興味を持つきっかけが弱い~みたいなことを書きましたが、宗助とアリアの間に何らかの関係があるのだと仮定することで反転するってわけです。ただ考察はあくまでも考察です。書かれてないことを勝手に読み取って、あまつさえ評価に反映することは、私はしたくありません。

証拠2:壱子の出自が不明で、育児院や里親を転々としている

壱子は幼いころから施設や里親の元を転々としています。この境遇から、周が連れ去り教会に預けた子どもが成長したのが壱子である…と考えることが可能です。

証拠3:壱子の仮誕生日も、アリアの出産日も、どちらも年末

そもそも出自が不明であるため、壱子の誕生日は一応は大晦日となっていますが、実際は年末の辺りのどこかであるとされています。一方で前述の通り、アリアが出産したのも年末です。

アリアが出産したのは1949年で、壱子が生まれたのも1949年です。どちらも季節は年末…少なくとも冬であることは間違いありません。アリアはクリスマスに思い入れがあるような発言をしますから、より具体的にはクリスマスだったのかもしれません。

この時間的関係から、壱子がアリアの娘だったと考えても不自然ではありません。

壱子がアリアと宗助の娘だと言えない証拠

もっともらしく証拠を提示しましたが、壱子=アリアの娘説では絶対に説明のつかないシーンがあります。フェアに行くため、最後にこれも付記しておきます。

反証:へその緒の箱の「翔」の文字

アリアの子のものであるとしたへその緒ですが、この箱をよーく見てみると「翔」と印字されてあるのが分かります。

これが何を示すかは不明ですが、普通に考えれば子の名前です。壱子の名前は壱子ですし、翔は主に男の子につけられる名前ですから、壱子がアリアの娘だとすると、これは不自然な点です。

とはいえ、所詮は考察ですから、解釈次第で如何様にも覆せます。例えば、周が教会に預けた際、後から探せないように適当な名前をつけた…などと考えることもできるでしょう。

因みにへその緒の箱には「極月」とも印字されています。これは12月を表す言葉ですから、アリアの出産時期はやはり12月であったことが分かります。

考察は以上です。どこまで信じるかはアナタ次第…。

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