このゲームからは、逃げられない――。
2023年は何本かのアドベンチャーゲームが話題になりました。
『パラノマサイト FILE23 本所七不思議』はニンテンドーダイレクトで登場した謎の新作というポジションから旋風を起こし、日本ゲーム大賞では見事優秀賞を獲得。フリーゲーム界から彗星の如く現れた『ファミレスを享受せよ』は口コミが広がり、目立つところではメディアIGN JAPANのゲームオブザイヤーにて2023年のベストインディーゲームに選ばれています。他にも『ghostpia シーズン1』などにも注目が集まりました。
この一年のテキストADV界隈は大型タイトルこそ不足したものの、小規模タイトルが活躍を見せてくれました。
そうしていよいよ年の暮れが見え、今年の新作もついに出そろったかと思われた11月。
各々の間で定まりつつあったであろう「2023年のベストADV」に待ったをかけるように現れたのが『ヒラヒラヒヒル』でありました。企画、シナリオはあの瀬戸口 廉也。
『CARNIVAL』でその実力を知らしめて以降、小説に注力する期間もありながら、作品を発表する度にADVファンダムを盛り上げてきた瀬戸口。彼がシナリオを務める本作が、前述の作品群で活気づくADV界隈で話題にならないはずがない……!!
……が、そんな私の予測は外れてしまったように思います。
だってファミレスやゴーストピア、パラノマと比べて明らかに盛り上がっていない。もちろん私が観測できていないだけの可能性の方が高いでしょう。しかし私も同志を多数フォローしていますから、今何が盛り上がっているかはタイムラインを眺めているだけでも自然と伝わってくるのです(最近だと『The Cosmic Wheel Sisterhood』)。
そこに『ヒラヒラヒヒル』の姿がない。……なぜだ?
そう疑問に思っていましたが、しかし本作を実際にプレイして、理由の一端が見えたように感じています。
言うなれば本作は、語るのが難しい。
なぜなら本作は、パラノマの360°背景やファミレスのドリンクバーや暗号のような、語りやすい特徴を持っていない。物語と表現と選択肢のみで直球勝負する、盤外一切無しのストロングスタイル・ノベルだったのですから。
同時に思いました。
自分は『ヒラヒラヒヒル』を語ることから、逃げられない――。
何せ私は、日頃『テキストADVマガジン』などと銘打った記事を書いて、ADV界のキュレーター気取りをしています。ビジュアルノベルやテキストADVには、人よりちょっとだけ詳しいつもりでいます。
少なくとも、そんな認識を持ち、しかも個人ブログだなんてやっている私だけは、この直球ノベルゲームを語ることから、逃げられないと感じたのです。
これより以下は私が思う『ヒラヒラヒヒル』のレビュー的感想です。レビューのつもりで書きましたが、いずれも客観的な指標に基づいておらず、私の好みに合致したかどうかが判断基準であるため、あくまでもレビュー寄りの感想と位置付けています。
また初めに書いておきますと、この記事には心残りがあります。それは全体的に構造の話に終始していて、中身…つまりその構造で何を語っていて、それが良かったかどうかにまでは踏み込めていないことです。
さぁ、『ヒラヒラヒヒル』を語りましょう。
盤外無しのストロングスタイル・ノベルゲーム。
ストロングスタイル。
これが『ヒラヒラヒヒル』への第一印象です。
ストロングスタイルとはアントニオ猪木が提唱したプロレスのスタイルを表す言葉で、現在は主に盤外戦術に頼らない、実力一本で勝負している何かについて使われる印象です。この記事では、後者の意味で用いています。
誤解のないよう保険をかけておきますと、私はADVの盤外戦術…つまり特殊な表現やシナリオを、悪だとか実力でないだとかは全く思っていません。むしろそのようなユニークな作品と出会うことを楽しみにしています。
ただ『ヒラヒラヒヒル』を遊ぶと、このストロングスタイルという言葉を使わずにはいられない…だって本作は、本当に、ビジュアルノベルやテキストADVの基本の要素だけを研磨し、作品を仕上げ切っているように見えるからです。
以下、本作の良いところを4つに分けて、解説します。その4つとは、具体的には以下です。
・リアリティ
・テキスト
・物語
・選択
※もちろんこれ以外にもアートワークやサウンド、声優の演技など、ビジュアルノベルの基本と言える要素はいくつかあります。
それぞれがどのような良さを持っているのか?
以下、私の考えを解説します。
リアリティ…物語を私たちの延長線上に接近させる
私はビジュアルノベルやテキストADVを遊ぶ際、どれだけ作品世界や物語に没入できるかを重視しています。もちろん、これは私の個人的な趣味嗜好によるものです。
そのような体験を好みますから、物語の世界にプレイヤーを誘い、それに触れている間、現実世界の時間から切り離されるような感覚もたらしてくれた作品を、私は高く評価します。そして『ヒラヒラヒヒル』は、そのような没入体験ができる作品でありました。
受け手を没入へと導く要素はいくつかあり、そのうちの一つだと私が考えているのが、リアリティです。作品世界の持つリアリティが、プレイヤーを没入へと誘うのです。そして『ヒラヒラヒヒル』はリアリティが強い物語の構築に成功していると感じます。これが没入を促しました。
しかしここで疑問が浮かびます。
いったいなぜ、リアリティが没入感へと繋がるのでしょうか?
この部分を論理的に説明できなければ、私は本作に対して、リアリティによって没入感を味わえるからリアリティが評価点だ…などとは言えないはずです。
実はこのリアリティと没入の因果関係は、私自身も考えている途中で、まだ答えが出ていません。
この記事の中で答えにたどり着こうとしたのですが、これが想像以上に難しく、できませんでした。ひょっとしたら没入とリアリティは無関係であるのかもしれません。
それを踏まえた上で、私がリアリティが没入に繋がると感じる理由の言語化を試みます。
まず、そもそもの話。当たり前のことですが世の大半の物語は、嘘っぱちです。
一部を除いてどんな物語も空想の産物であり、つまり嘘っぱちです。これは『桃太郎』だろうが『容疑者Xの献身』だろうが『千と千尋の神隠し』だろうが変わりません。
そして嘘っぱちであるため、物語世界と現実世界で生きる私たちは、遠く離れています。
例えば、桃太郎が鬼に負けたとしても、容疑者Xが完全犯罪を成し遂げ警察から逃げおおせても、私たちの世界には何の影響もありません。物語とは嘘っぱちで、現実に起こっている出来事ではないからです。物語の中で何が起ころうとも、現実の私たちには何の関係もありません。このように物語と現実世界には「嘘っぱちか本当か」というあまりに巨大な溝があり、二つをどこまでも遠ざけます。
この嘘っぱちと現実の長大な距離を縮めるのが、物語に込められたリアリティだ……と私は考えています。
例えば『千と千尋の神隠し』は、その大半がファンタジー…つまり噓っぱちです。
神々が集まるお湯屋なんてものは、当然実在しません。魔法が使えるおばあちゃんもこの世界に存在しません。この他にも、千と千尋の神隠しの中には大量の嘘があります。
しかしその中に一点、決して揺らがないリアリティがあります。それが千尋です。
突然夜になるあの世界も、ブタになってしまう両親も嘘っぱちですが、それを見て怯え、驚き、逃げ惑う千尋の姿はリアリティです。なぜなら、もし私たちがあの世界に迷い込み、同じような目にあったら、きっと千尋と同じ反応をするからです。その意味で千尋は、噓っぱちの世界にたった一つ紛れ込んでしまった現実と言えます。
そしてこの千尋というリアリティが、本来とても遠いはずの現実世界と物語を一気に近づける。
私たちと何ら変わらない存在である千尋。彼女を介すことで、物語は荒唐無稽な作り話から、私たちと同じ存在が同じ感性で体験するifの距離にまで迫ってきます。千尋を通して物語は現実の延長線上に姿を現し、千尋のリアリティに私自身を重ねることで、私は嘘っぱちの作品世界へと没入することすら可能になります。
例えば、もし千尋がブタになった両親を見てゲラゲラ笑うようなクレイジー野郎であったなら、少なくともその時点では作品世界へ没入する体験は得られないでしょう。なぜならそんなクレイジー野郎にはリアリティがないからです。私たちと重なる部分が全くない人物造形は、もともと嘘っぱちである物語を更に遠くするでしょう。もちろん、狙って遠ざける場合もありますから、これ自体が作品の良し悪しに直接関係するわけではありません。ただリアリティを介した作品世界への没入体験を実現させる上では、千尋はクレイジー野郎であってはいけないのです。
話を『ヒラヒラヒヒル』に戻しましょう。
『ヒラヒラヒヒル』は言うまでもなく作り話です。架空の物語です。
しかしその架空を取り囲む作品世界や人物の造形には、緻密にリアリティを持たせてあります。この度合いは高く、そのため本作の物語世界と現実世界は極めて近い。プレイヤーは意識せずとも、このリアリティを介して作品世界と現実を重ね合わせるでしょう。すると物語は、もはや作り話と切って捨てられない真実味を持って迫り、その真実味こそがプレイヤーを作品世界へとダイブさせるトリガーとなり、没入へと導いていきます。
……。
言いたいこと、伝わりました?
よく分かんなかったとしても、前述の通り、問題は記事…というか私の理論にある可能性があるので、あまり気にしないでください。上記の理論は、はっきり言ってごまかしている部分があります。もちろん一定以上正しいと思っているからこそ書きましたが、考える材料程度に思っておいた方が自身の誤りを防ぐことになることは確実です。具体的に言いますと、真実味と没入の関係については、私もよく分かっておらず、誤魔化し気味に書いています。
つまるところ、ヒラヒラヒヒルは当然作り話だけど、でも高いリアリティを維持して物語を紡ぐことに成功しているため、臨場感があって嘘っぽさは少ないから、高い没入を感じられる作品だよ、ということです。
ヒラヒラヒヒルはファンタジーです。しかしそのファンタジーにまつわる歴史があり、制度があり、施設があり、ファンタジーと関わり合う周囲の人物には、そこに至る経緯と彼らなりの思考があります。
このリアリティが、私の本作への没入を促したのです。
ただし、ここで一点加えておかねばならないのは、本作のリアリティは史実の引用…というかコピーに寄って得られているものも多いことです。
現実味を出すには現実をそのまま採用するのが最も合理的であるとは思いますし、それにだって技巧や調査が必要で、いかに描写するかは作り手の努力によるでしょう。しかしそれでも、本作のリアリティがゼロから作り上げたようなものではない…ということは書いておかねばならないでしょう。…ゼロから作るリアリティなんてあるか?と書いてて思いましたけれども。
テキスト…曖昧なイメージに細部を与える
リアリティが没入を作る一つの要素。であるならば、そのリアリティを作る要素には、一体何があるのか?
『ヒラヒラヒヒル』から私がリアリティを感じたことは上記の通りですが、では具体的に、本作のどのような部分からリアリティを感じたのでしょうか。
この答えはいくつかありますが、ここでピックアップしたいのはテキストです。本作のテキストは多くのシーンで雄弁に世界や人物を表現し、受け手のイメージに細部を与え、リアリティへと近づけていきます。
『ヒラヒラヒヒル』のテキストがよく細部を表現している一例を引用します。
集まった親族たちの真ん中に、うつむけに倒れた白衣の肉体は、その長い乱れ髪を畳みの上に散らしている。髪は、まるで絹の糸のような純白色をしていた。
『ヒラヒラヒヒル』より
しかし驚いたことに、そんなに真っ白な髪をしていながら、彼女は老いてはいなかった。白装束から突き出した細く白い足はたるみのないなめらかな肌を持ち、露わになった首筋にはしみひとつなく、艶めかしかった。それらは全て、十代の少女のみが持ちうる特徴だった。
少女は身をよじらせ、両手を畳の上に突き、身体を持ち上げようとしたが、力が足りず、持ち上がらない。
上記は冒頭のワンシーンです。
このシーンには上記のスクリーンショットの通り、一枚絵も用意されています。そして、これと同時に表示されるテキストが、ビジュアルだけでは語り切れない人物の所作や様子、これを見る者の感情……つまり細部を立ち上がらせ、受け手のより鮮明なイメージを促していることが分かるのではと思います。
前提として、私たちは物語に触れる際、提示される情報をもとに一定程度その情景を脳内にイメージしますが、実はそのイメージは大抵の場合、漠然としています。
例えば「男が立っている」という情報だけでも、私たちはその風景を想像することができるでしょう。
しかしこの時、その男の靴や髪型、年齢、持ち物、表情など、細かい部分まで想像することはしないでしょう。これを指摘されて想像しなおすことは可能でしょうが、「男が立っている」の一文だけでは難しい。
対して、当たり前のことですが、現実世界ではこのように細部がぼやけている男は存在しません。この差もまた、物語(から脳内で浮かべるイメージ)と現実世界の遠さの一つだと思っています。
細部はこの距離を縮め、物語のよりリアリティあるイメージをアシストすると考えます。
ならば細部をやたらめったら描写すればいいのかと言えば、もちろん違います。そんなことをすれば文章は冗長になる上、話がいつまで経っても進みません。
では何を、どのように、どの程度描写するのか。
つまりリアリティを感じさせるための細部描写にも技巧があり、これが本作テキストの至る所に散りばめられています。そのため、私は本作のテキストを評価しています。
ただこれには問題もあります。まず、その技巧とやらの良し悪しを語る技術を私は持っていないことです。何となく良いと感じる…としか言えません。
また、これはあくまでもビジュアルノベルやテキストADV界隈で限ってみた場合に言えることである…とも述べておかなくてはなりません。文壇ならばこのレベルの技巧を持った書き手は多くいるでしょう。とはいえ、文芸ではビジュアルやサウンドを伴った表現は難しいため、より鮮明に浮かぶ作品世界へのトリップという体験では、本作は特筆すべきものがあるとも感じます。
物語…続きが気になる、という不変の評価点
まず最初に書いておきたいのは、私はビジュアルノベルやテキストADVを遊ぶ際に「続きが気になるかどうか」をいつも重視している…ということです(そうでない物語を評価しない…というわけではありません)。
そして『ヒラヒラヒヒル』はこの点を十分クリアしている作品だと感じました。
ただ、やはりこれも問題がありまして、私自身が「なぜこの物語は続きが気になるのか」を明らかにし、言語化するだけの能力を持っいません。
確かに言えることは、本作にはまず強力な掴みがあります。「風爛症」という架空の疾病です。
これはファンタジーと実在する病を掛け合わせたような、興味を惹く設定であると感じました。発症した患者は肉体が腐り落ち、精神に異常をきたします。その様子はまるで人ならざる者のようであり、これが偏見や不当な虐げに繋がってしまっています。しかし、それでも彼らは人間であり…。
この疾病を柱にアップダウンのついた展開が多数盛り込んであり、時にはショッキングなシーンも。
合間のシーンでは作品世界のディテールを提示し、物語はより厚みを増しながら進行していきます。状況や感情へ移入させるだけの描写も十分であるため、最後まで展開に興味を持って遊ぶことができました。
もちろん、何を以てして「続きが気になる」と言えるかは個々人によって基準が異なるため、この評価を全てのプレイヤーが共通して抱くものだとは言えません。こればかりはその人がどれだけ多くの物語に触れているかだとか、どのような内容に興味を持つかだとかの、個人的な嗜好に依拠する部分が大きいため、ここでは「私を信じてください」と言う他ありません。
選択…何かを選ぶとき、同時に、何を選ばないかを問う
本作には物語中に選択肢があります。私はこの選択肢を評価していますが、その理由は「選択肢があるから」というだけではありません。
私が本作の選択肢を評価点だと感じる理由は、その内容が言わば「選択の重み」を伴っていたからです。
このジャンルを遊んでいれば選択肢に直面する機会は数多くありますが、その多くは、例えば自販機で缶コーヒーを買うかお茶を買うかのような、言ってしまえばどうでもいい選択です。
もちろんそういう選択肢を無くすべきなどとは思いません。ただそのような選択肢は、単にどちらの分岐を先に見るかの順番決め、あるいは道路標識のような、選ぶ前からどちらが正しいかがはっきりと示されているようなものが大半であり、選ぶという行為の重みはないと感じます。
と言っても、これ自体が問題だとは思っていません。
ビジュアルノベルには選択云々よりも物語をスムーズに楽しむことを重視した作品も多く、そこにおいてはいちいちプレイヤーを悩ませたり、どちらも正しいように見える選択肢はノイズになり得るでしょう。この意味では合理的な仕組みだと思います。
ただ『ヒラヒラヒヒル』の選択には、上記のような選択肢にはない「重み」を伴うがゆえの面白さがあります。
選択は時に重みを伴います。何かを選ぶということは、同時に他の何かを選ばないことでもある。もしそれが二度は戻れない選択ならば、選ばないものを決定することは、重い。
例えば、ジャンルは全く異なりますが『バイオハザード7 レジデントイービル』にも、重みを伴った選択が用意されていました。
簡単に説明すると、二人いる人物の内どちらの命を助けるか、というものです。
片方は婚約を決めた女性で、もう片方はそこまでの道のりを助けてくれた恩人。当然助けることができるのは片方だけで、選ばなかった方は必ず命を落とします(後に助かったことが判明しますが)。この選択を、バイオ7はプレイヤーに委ねる。どちらを選んでも何か得て、何かを失う。その狭間でプレイヤーは悩み、容易には答えを出せないでしょう。
このような重みある選択が『ヒラヒラヒヒル』にも用意されているとうわけです。
本作は作中、プレイヤーへの問いかけを行います。どちら選んでも何かを得ますが、同時に何かを失います。プレイヤーが何を重んずるかを問うような選択肢が予感させるのは、これが物語に大きな影響を与えるであろうこと。
何を選び、何を捨てるか?
本当にこれで良いのか?
これで物語はどう変化してしまうのか?
本作の選択肢はその重みによって余韻を残し、物語の続きへの期待感を増幅させます。だから私は、この選択肢を面白いと評価しています。
ただ注意点もあります。本作の選択肢には、ほぼ明確な正解が決められていることです。
と言うのも、重みのある選択肢とは正解がはっきりしていないからこそ重いわけですが、しかし、本作には「トゥルーエンド」という正解が用意されているのです(明確にトゥルー、バッドと区分されたエンディングは存在しませんが、内容からそうとしか解釈できない)。
答えのない問いで重みを感じさせておきながら、片方が正解であるかのように描くのは、まるで特定の思想に誘導されているような違和感を覚えるかもしれません。
ただ本作の選択肢は、プレイヤーというよりは主人公…明確なバックボーンや思想を抱えた主人公に対して提示されたものであり、プレイヤーの役目は自分ならどうするかを決めることではなく、この主人公はどうすべきかを選ぶことである…と考えると、正解が用意されているのは一概に悪とは言えないでしょう。いずれにせよ、一定程度思想への誘導を感じるとは思いますけれども。
だが、結末もまたリアリティ寄りで、期待外れに感じるかも
盤外戦術を用いず、テキスト、物語、選択など、ビジュアルノベルの基本要素で真っ向から良作を仕上げた本作。
そのような内容であるから私は「ストロングスタイル」と表現し、そして面白い内容だと感じています…が、もちろん不満や疑問がないわけではありません。
まず私が不満…というか、賛否が分かれるだろうと感じる点は、本作は結末までもがリアリティであることです。
リアリティな結末とはつまりどういうことかと言いますと、本作はそのエンディングにおいて、何かあからさまにプレイヤーの胸を打ったり、感情を揺るがしたりするような内容を示しません。人物がほんの少し前進し、世界が少なくとも昨日より良くなったと感じられるような、小さな歩みで物語を締めくくります。
これはよく言えば手堅くリアリティがありますが、悪く言えば物語であるのに現実じみて、小ぢんまりしている。
このような結末であることは問題だとは思いません。
ただネックになるのは、本作が独自の設定と周囲のリアリティを描いた結果、大きな社会問題にまで切り込んでいるように見えてしまうことです。
本作が描くのは現実世界でも未だ解決し得ない、極めて難しく、リアリティある課題です。
そうして大きな壁を用意すれば、観客は人物らがそれをどのように乗り越え、そして何を得るかに注目するでしょう。しかし本作のリアリティを持ってまとめられたエンディングが、そうして醸成した(してしまった)期待に応えるものだったかと考えると、これは賛否が分かれるだろうと思うのです。
リアリティを考えれば、強大な壁を個人である主人公が打ち破り、社会を変革させるようなエンディングは馴染まない。しかしそうでないと、物語としては爽快感やエキサイティングに欠けてしまう。
本作はそのリアリティにより自ら醸成した期待に、自ら応えることができなかった…そんな評価がでても無理はないと感じます。
誤解のないよう言っておきますと、本作のエンディングには何かが破綻していたり、ご都合主義が見え隠れしたりというような明確な失敗は、少なくとも私には見つけられません。そうならないよう描写を尽くしていると思います。
ストロングスタイルを求める人に
読み、選択し、また読み進める。真新しさよりも研磨された技巧でもって現実に接近する物語は、ADVやビジュアルノベルのファンならば確かに体験する価値があるでしょう。
本作にビジュアルノベルの盤外戦術のような遊びは一切なく、私はこれをストロングスタイルだと考えます。そのような作品を求める方に。