『Stray』を遊びました。
PS+での遊び放題対象期間が2023年7月18日までとのことだったので、慌て気味のプレイになりました。発表時にも話題になった作品でしたね。
簡単に感想を書きますと、ややネガティブになりますが、終始、違和感の消えない歪なゲームだった…というのが正直なところです。
その違和感、歪さの正体は「主人公である猫が、人語を理解できないものとして描かれているにも関わらず、人語を理解できているとしか思えないこと」であります。
『Stray』はデフォルメやアレンジを廃した、現実に近い猫を描いているんですが、その猫に対して、キャラクターたちは人語で話しかけるんですよね。そんなことをしても猫には意味が分からないはずなんですが、結局、猫を操るプレイヤーは人語の意味が分かり、それに沿って猫を動かしちゃいます。結果、まるで猫が人語を理解して動いているように見え、その歪さが最後まで気になる作品でした。
Strayの猫は、言葉が分かるの? 分からないの?
まず初めに、『Stray』の猫は、言葉を理解できるのか、できないのか。
これは明確に、できないと考えて良いでしょう。そのように描写されています。
一口に猫と言っても、フィクションの上では多様なデフォルメ、アレンジを施して表現されるものです。例えばアニメ版『ポケットモンスター』のニャースや『猫の恩返し』のバロンなど、猫の見た目をしつつも、言葉を話したり二足歩行をしたりするキャラクターは数えきれないほどいます(ニャースは猫っていうか猫型のポケモンですが…)。
では『Stray』の猫はどうかと言いますと、これはニャースやバロンとは違い、デフォルメやアレンジをできるだけ廃した、現実寄りの表現がなされています。そのため歩くときはいつも四本足で、人語を話すことは一切しません。
『Stray』は、主人公である猫が他の猫とコミュニケーションを取るシーンから始まります。
ここではもちろん、人語は一切使われません。仕草と「ニャー」だけでコミュニケーションする。これはゲームが進行して人語を話すキャラクターが現れても、変化しません。猫自身が直接会話することはありません。人語でのコミュニケーションは、ドローンのような小型ロボットB-12が代わって行う…という設定で、やはり、猫自身は人語を理解できないものとして描かれています(厳密にはB-12がロボット語を翻訳している)。
にも関わらず、『Stray』の猫は、人語を理解できているとしか思えない振る舞いをします。だから歪なゲームだと感じます。
例えば本作にはパズルを解くシーンや、NPCに指示されたアイテムを探すシーンが多くあります。
この一文だけでも既に違和感がありますけども、これら目的やタスクの解説が、猫に対して、全て人語で行われるのです。これらは明らかに不自然です。
現実に即し、人語を扱えないものとした猫に、なぜ人語で話しかけるのでしょうか。
あのアイテムを取ってきてくれとか、あそこに行ってアレをしてくれとか、そういう依頼を本作は全て言語で伝えますが、現実そのままの存在として猫を表現した以上、これは全て不自然で、あべこべです。
そのうえ、設定上は理解できないはずの人語でなされた依頼を、全て達成してしまうのだから、いよいよ歪に見えます。アレを取ってこいと言われれば、探してでも見つけ出す。アレをしてくれと言われれば、命の危険があっても立ち上がる。
結局猫は、人語を理解できるの? 理解できないの?
もちろん、これが仕方のないことであるのは、私も理解しています。
猫に対して人語で話すのは、実際はその向こう側にいる私たちプレイヤーに語り掛けているからであり、そうだとするなら、まさか猫語でニャーニャーと話すわけにもいきません。人語を理解できない猫に、人語で依頼をする。猫はその依頼を達成してしまう。確かに歪な構造ですが、それはゲームなんだから仕方ないじゃないか。他にどうしろってんだ。
ただ、ここで思うことがあるんですよね。
『Stray』は、いっそのこと、猫に人語を理解させたら良かったんじゃないでしょうか。
猫は、人語を理解するべきだった…?
『Stray』の舞台は、今よりもずっと科学が発展した近未来であることが、背景ビジュアルなどから伺えます。
その科学力を活かせば、猫に人語を理解させることもそれほど難しくはなかったでしょう。設定での誤魔化しようはいくらでもあった(そもそもB-12が“猫語”に翻訳しているのでは…という見方もできますが、そうだとしても、人語に翻訳した時にあれだけ複雑になる文章を猫が理解できるとは思えず、不自然さは拭えません)。
ロケット団のニャースよろしく、猫は人語を理解できますってことにしてしまえば、上記の歪さが生まれることはなかったはずです。
まさか『Stray』の開発チームが、人語に関する不自然さを認識していなかったとは思えません。またその解決策として、猫に人語を理解させる案が出なかったはずがないでしょう。だってフィクションの世界には、喋る猫なんていくらでもいますから。それでも、猫は人語を理解しなかった。
ではなぜ、本作の開発チームはそうしなかったのでしょうか。そこに、歪さを抱えても捨てなかった本作へのこだわりが読み取れると考えています。
狭く、限定的な言語のネットワーク
人間は言語によってコミュニケーションし、言語で繋がるネットワークを築いてきました。
言語は多くのものを柔軟に表現し、豊かなコミュニケーションを可能にする便利なものですが、一方で限界もあります。
例えば日本語ならば、日本語が通じるもの同士で、かつ日本語で表現可能なものしか伝えることができません。その意味であらゆる言語は万能でなく、限られたネットワーク内でしか使えないコミュニケーション手段とも考えられるでしょう。
そんな言語のネットワークの外にいる存在の一つが、動物たちです。
私たちは動物の気持ちを、言語で理解することはできません。仕草や体の状態で推測するのが限界で、犬や鳥に「いまどんな気持ち?」と尋ねたところで、それに言語的な意味を持った返答が来ることはありません。言語では、動物たちを理解することはできないのです。
『Stray』に話を戻しましょう。
本作は猫が人語を扱えないがゆえに、歪なゲームになっています。繰り返しになりますが、その歪さを開発チームが認識していなかったとは思えません。ならば人語を理解させればよかった。それをプレイヤーは「これはゲームだから」と納得してくれるでしょう。作品世界の設定を使えば、いくらでも誤魔化せるのだし。
しかしそれでも、猫は人語を理解しない。できるものとしなかった。それは開発チームの妥協でも怠慢でもなく、こだわりであると思っています。
猫に人語を扱わせることは、それ即ち、猫を人間の理解可能なネットワークの範囲内に押し込んでしまうことに他ならないためです。
猫は何を思っているか。猫は何を考えているか。これは私たちの言語のネットワークの外にありますから、言語で伝わることはなく、だから言語で理解することもできません。
言語とて人が作ったコミュニケーションツール。そこに猫を放り込み、勝手に翻訳し、適当なセリフをあててその気持ちを代弁してしまうことを、『Stray』開発チームは良しとしなかったのでは…と思うのです。
本作は歪なゲームです。しかしその歪さはこだわりの証左と読み取ることもできる。ですから本作を「歪だ」の一言で終わらせるのは、もったいないことなのかもしれません。
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