『A YEAR OF SPRINGS』というゲームを遊びました。
実は一度プレイ済みなのですが、感想を書けていなかったので再プレイ。性的マイノリティである3人の主人公が悩み苦しみ、そして解決を得てゆくテキストADVです。
性的マイノリティって実は身近な存在…というのは、正に彼ら彼女らの発信によって、市民の間でも認知されてきたように思います。ただやはり画面の向こうの存在であるような遠さは拭いきれていないとも。例えば家族がそうである可能性も…というレベルまでは近づけていないと感じます。
例えば最近、学校の制服なんかはジェンダーフリーが当たり前になりました。その一方でズボンを履く女子、スカートで過ごす男子って本当にいるの?…と感じてしまう自分もいます。そのような意味では私は性的マイノリティを「確かに存在するけど実際どこにいるか分からない人たち」みたいな遠さで捉えていました。本作はそれを、もっと近い距離で捉えなおすきっかけになる作品だと感じました。
そもそも性的マイノリティは自身を異端だと感じており、そうであることを明かすことが難しい。そして社会も戸籍上の性別のみで区別する仕組みをずっとやってきましたから、普通に過ごしているだけでは認知することも難しい。
例えばどこに行ってもトイレは男女、風呂は男湯と女湯です。この区分で全てのヒトは分けられるとし、性的マイノリティへの考慮は一切ないまま社会は組みあがってしまいました。そのような中で生きていれば、男湯にも女湯にも入れない人がいる…ということに気づきづらいですし、また性的マイノリティも、自身がそうだと言いだしづらいでしょう。何せ役所に提出する紙一枚から、世界には男と女の二種類しかいないのだとしてきたのですから。私、違うんです…と発信するのはとても勇気がいりますし、奇異の目もきっと避けられない。
そうして社会が存在を認知せず、だから私たちも気づけずにいた性的マイノリティとの距離を近づける。
『A YEAR OF SPRINGS』はそんな作品でした。
スカートやズボンを身に着けて過ごす彼ら彼女らを見かけたとき「本当にいるんだ…」ではなく「今は普通だよね」と言えるようになれればと思います。
また短編ながら選択肢によってエンディングが分岐するなど、ADVらしい遊びを持たせてあるのも好印象です。
さてそんな本作ですが、いくつかの気になる点もありました。
まず思ったのは、性的マイノリティを取り巻く制度上の問題への言及が、やや唐突なこと。
社会制度がいかに性的マイノリティに無配慮であるかを語るシーンがありますが、これは入り方がどうも突然と言いますか、いきなり話のピントが大きく変わるような…不自然な印象を受けました。キャラクターのセリフではなく作者の言いたいことであるように感じられ、だから言わされているような感があります。なるほど大切なことだと思うと同時に、物語への組み込み方としては美しさに欠けているとも。
そしてもう一つが、今回の記事の本題でもあります、都合の良さです。
今回はこれが主題です。
優しすぎる、温泉の女将
三作からなる『A YEAR OF SPRINGS』。
その一作目である『one night, hot springs』は、トランスジェンダーである主人公が温泉旅館で過ごす一幕を描いています。
身体の性は男ですが、心の性は女であるハル。そのため男湯にも女湯にも入れず、温泉旅館に来たにも関わらず湯へつかることを諦めけかますが、それを救ってくれるのが一人の女将でした。
温泉を楽しんでもらいたいとの考えから、露天風呂付きの部屋への無償アップグレードを提案する女将。ハルも救われ、プレイヤーとしても一安心のワンシーンです。
しかしこれは、物語だからこそ許される都合の良い展開であるとも感じました。
作中では言及されませんが、この女将の対応にはいくつもの疑問が浮かびます。
・女将の一存で決定できることか?
・ハルがトランスジェンダーである証拠はないのに決めていいのか?
・ハルだけを特別扱いするのはトラブルの元ではないのか?
こんな具合に。
性的マイノリティのための風呂場を用意していない旅館側の不備だとも考えられますが、設備レベルでの対応不足の責任を追及するのは、今の社会には難しいことだと感じます。現実ではこうはいかないだろうと感じました。
現実に存在する性的マイノリティが、現実に直面しうる問題を描いているだけに、こうして物語でしかありえないようなところへ着地するのは、優しいですが都合が良いとも取れます。結局はこのような実現の難しい方法でしか性的マイノリティを救うことはできないのか…と、ガッカリもしました。
でも、ここでふと思いました。
この都合の良さは、その気になれば現実世界でも作り出せるものではないか?と。
私たちは、女将のようになれるか
トランスジェンダーも現実に存在し、そしてハルが直面した問題も現実に存在する。ならばそれを取り巻く周囲の人々も、やはり現実に存在する。そしてそれは他でもない私たちです。
ならば、女将の取った対応を「物語だから許される」と切って捨てず、正に私たちが女将のように考え動くことで、それは物語の中だけの話でなく、現実にすることができるはず。そう感じました。
本作の描いたエンディングは理想で、優しすぎて、都合が良い。しかしそれは、その気になれば私たちが作り出せる理想、優しさ、都合の良さでもあります。
例えば…温泉旅館の実態を知らないため想像のみの発言になりますが、部屋の無償アップグレードまでいかなくとも、清掃の時間を1時間伸ばしたことにして、その時間で温泉に入ってもらうだとかなら、不可能ではないように思います。
そしてそのような優しさ、都合の良さであれば、きっと私たちは作り出せる。そのとき
『A YEAR OF SPRINGS』が描いた世界は絵空事で終わらず、現実にまで波が届き、性的マイノリティが昨日よりちょっとだけ生きやすくなるはず。
こんなの現実じゃ有り得ないよね…と切って捨てるのでなく、そのままは無理でも、何かできることはあるんじゃない?と考えなおす切っ掛けになり得る。
『A YEAR OF SPRINGS』(というかone night, hot springs)は優しすぎる展開を描きますが、それは物語としての欠点でなく、目指すべきものであると考えれば、その意義は大きいと感じました。
とはいえ、現実はやはり難しい
いかにも性的マイノリティに理解がある風で書いてきました。
しかし私も、まだまだ彼ら彼女らを異端として見てしまう側の人間であることは否定できません。
冒頭に制服はジェンダーフリーが当たり前になったと書きました。とはいえ選択肢として用意してあるだけで、実際にスカートをはく男子高校生って本当にいるの?と考えてしまいます。
ただそれでも『A YEAR OF SPRINGS』を遊ぶ前と今では、変わっている部分があると断言もできます。
90分程度の短編です。興味のある方はぜひ。