「幸福に生きよ!」と言われても、どうすればいいのかがわからない。
『素晴らしき日々 ~不連続存在~ 』(以下、すば日々)は言わずと知れたR18美少女ゲーム界の名作です。発売は2010年と実に15年前ながら未だ新規プレイヤーは多く、しかも絶賛の声が絶えません。

そして絶賛と同じくらいに言われるのは「難解である」ということです。
「ErogameScape -エロゲー批評空間-」のユーザーレビューを見ても「難解」だとか「哲学」だとか「電波」だとか「考察」だとかの文言が多く見られます。すば日々は名作であり、同時によくわかんないゲームとしても有名です。
ただそれでも本作が打ち出すメッセージは明快です。
曰く「幸福に生きよ!」
本作は特にゲーム前半は難解というか意味不明ですが、終わりが近付くにつれ変化していく。そして打ち出されるメッセージ「幸福に生きよ!」は、なるほど疑いようがありません。難解でも哲学でもないし、もちろん電波でもなく、考察なんて一切必要ない。「幸福に生きよ!」…時代も場所も人種も関係ない。不変の価値をもつ明快な言葉です。
この明快さの前では、間宮卓司の電波妄想も、音無彩名の衒学じみた言動も、聞いたことのない古典からの引用も、それら一切の意味が全く分からなくて問題ないように思える。すば日々の難解さを全て帳消しにするような心地よさをプレイヤーにもたらします。
しかし明快であるがゆえに、この言葉だけでは軽薄でもある。
幸福に生きること。それを目指すこと。
これは確かに大切ですが、ごく当たり前のことでもあります。人間は生まれ落ちた以上だれもが幸福を目指します。時に倒錯した在り方をしたりするでしょうが、幸せになりたくないと思う人間はいないはずです。
だからここで問題になるのは、どうすれば幸福になれるかが分からなかったり、あるいはそもそも何が幸福なのかで迷ったりすることではないでしょうか。
「幸福に生きよ!」と言われたって、具体的には何をすればいいのでしょう。お腹いっぱい食べればいいのか、金を稼げばいいのか、はたまた愛する人と出会うことこそが幸せなのか。
「幸福に生きよ!」は明快です。しかしこの言葉だけでは例えば日めくりカレンダーに書いてある「今日の格言」的な軽薄さがある。格言通りに生きられないから苦しいんじゃないですか。
では『素晴らしき日々~不連続存在~』は、その幸福な生を具体的にはどのように示したのでしょうか?
私の関心はここにあります。つまり「幸福に生きよ!」の明快さだけでスッパリと終わらせてしまうのではなく、すば日々はその幸福とやらを、物語を通してどのように示したのか。本記事ではこれを考えてみたい。
というのも、難解な部分の多いすば日々は、全体への見通しが立ちづらい作品でもあると思います。だから私にとってこのゲームは「とりあえずよく分かんないけれど幸福に生きよ!らしい」くらいの内容でしかありませんでした。これを変えられないかと思っています。そしてどうせなら、そうして考えたことを共有しておくこうと思います。
そのため本記事では「この物語は幸福や生き方について、こんなことを伝えようとしているのではないか?」という私の解釈を、すば日々の物語内から根拠を出しながら語っていきます。
とはいえ、本記事は推測や飛躍を含むことを前提にします。すば日々の中に「幸福とは〇〇することです」などの答えがはっきりと書いてあるわけではない以上、これは避けられません。だから間違っている部分が必ずある。
だから本記事でやるのは、言うなれば提案です。これは答え合わせではない。「『すば日々』の物語を、このように読み取ってみるのはどうだろう?」という、いち素人からの提案です。とはいえただ提案だけされても困るでしょう。この提案を安心して受け取ってもらえるよう、ガイドをしようというわけです。
いきなり逃げ腰ですが、しかし答えが存在しない以上はこれが限界です。そしてどんな天才だろうが神様だろうが答えに辿り着くことは不可能です。ならばむしろこの限界は当然のもので、だからそれほど大きな問題だとは思っていません。
では始めましょう。

すば日々が示す、幸福な生とは何か?
「幸福に生きよ!」
…では、すば日々は具体的にはどのような「幸福な生」を示したのか。これに対する私の考えは、そのまま「生き方」と「そこでの幸福」の二点にわけて説明した方が伝えやすい。そのため本記事では生き方と幸福の2点を別々に語っていきます。
まず生き方から語ります。始めに結論を言うと、すば日々が示す生き方は、私の考えでは以下のようなものです。
「この先もずっと続く日常を、世界の外側を思うことなく、生きていくこと」
ではなぜこう考えるのか?
もちろん作品内に根拠があります。具体的には4人の中心人物らの物語内にあります。その4人とは間宮卓司、高島ざくろ、間宮羽咲、そして悠木皆守です。彼/彼女らの物語を共通するテーマのもとで見ることで、すば日々が示す生き方の内実が見えてくると考えています。
この生き方を語ったのち、幸福についても語ります。すば日々が示す生き方の中で、幸福とはどのようにあるのか。
実はこれは「〇〇をすれば幸福になりますよ」というような形では描かれていない、というのが私の考えです。すば日々が示す幸福とは、祈りや願いのようなものではないかと考えています。人はどうしたって絶望してしまう。その絶望の最中を生きざるを得ない私たちに対して「それでも幸福たれ」と祈ったり願ったりしている。だから「幸福に生きよ!」というけれど、それはこういう生き方が幸福なんだとかを具体的に言っているのではなくて、それでもアナタに幸福に生きてほしい…というニュアンスに近いメッセージを伝えようとしているのではないかと思っています。
これもまた、そう考える根拠を提示しながら詳細に解説します。
本題に入る前に注意点を述べます。
私はすば日々のシナリオすべてを把握しているわけではありません。それどころか、本記事を書くにあたって一部の難解だったり意味不明だったりする部分は、意図的に無視しています。だからシナリオが〇〇という結論を示している!とは主張しますが、これは一字一句をチェックしてそう言っているわけではありません。
例えば無視しているのは以下のような部分です。
・音無彩名の語り全般
ほぼ意味不明なので。
・間宮卓司編の妄想全般
白い部屋の妄想とか、あとは黒リルルと白リルルの戦いのシーンとか。
・「素晴らしき日々」以外のエンドほぼすべて
私が思うすば日々の言いたいことが詰まっているのは「素晴らしき日々」エンドおよび高島ざくろ編のアナザーエンドだと思っているためです。他はサービス的なエンディングではないかと思っています。
本記事はこのような部分を無視して書いています。このようなやり方を危険だと感じる方も多いと思います。だって私は自分の意見を補強してくれるような部分だけを拾って、そうでないものを切り捨てているかもしれないわけですから。自分の結論に合うように恣意的に根拠をピックアップし、推測と飛躍を重ねているかもしれません。
本記事はこういう限界を抱えているわけですが、しかしある一定の解釈をもとに物語を読み解くというスタイルを取る以上は、こういう限界は避けられません。だからこそ「提案」という逃げ腰姿勢を取っています。
では本題を。まずは生き方からです。

「世界の限界」を前にした、4人それぞれの物語から示される生き方
私が思う、すば日々が示す生き方。これを繰り返しておきます。
「この先もずっと続く日常を、世界の外側を思うことなく、生きていくこと」
こう言える根拠は物語内にあると言いました。
すば日々では「世界の限界」を前にした4人の物語が描かれます。その4人とは上でも書いた通り、まず間宮卓司。そして高島ざくろ、間宮羽咲、悠木皆守です。4人それぞれが「世界の限界」を前にそれぞれの思惑とやり方で行動し、やがて結末を迎えます。
この「世界の限界」という壁と、それを前に思うこと、行動、結末。以上の共通項のもとで4人の物語を追うことで、すば日々が示すものが見えてくると考えています。
まず間宮卓司の物語を振り返ってみます。
間宮卓司…「世界の限界」に何かを見出し、至り、還そうとする。
間宮卓司はもともと、自分自身に対して「消エテモイイ」とすら思っていました。
城山らからのエスカレートしたイジメのなか性暴力まで受ける卓司は、そんな自らを虫けらと見なし、消えてもいいとまで思ってしまいます。

虫ケラのごとき自分。そんな自分を世界から消滅させるために生み出されたのが悠木皆守の人格です。
しかし卓司はこのあと望んですらいたはずの死を強く恐れることになる。そのきっかけは高島ざくろの死と、彼女の机にあった「7月20に世界は滅亡する」という予言です。この予言は奇しくも母親、間宮琴美から聞いていたものと全く同様でした。
母ひとりが言っているなら世迷い言と捨て置けたかもしれない。しかしなぜ高島ざくろまで同じことを知っているのか。その真相は何てことないものですが、しかし卓司はこれがきっかけで母親の言葉と死への恐怖を思い出し錯乱します。

7月20日に世界が滅亡するなら、もちろん自分は死ぬでしょう。しかし卓司は死を恐れます。死にたくない。怖い。怯える卓司にある問いが立ちはだかります。
虫ケラたる自分がこの世界に生きる意味などあるのだろうか?
この点について卓司はリルルと問答しますが、なかなか答えを見つけられません。ビックになる、子孫を残す…あれこれ「生きる意味」を主張する卓司ですが、リルルは一蹴します。
「そんなものは全ていつか終わる。ならば無意味ではないか。また宇宙における無限の時間の前では、あらゆることは一瞬である。ならば時間的な長さには価値がない」
なかなかムチャクチャな論ですが、卓司はリルルにやりこめられてしまいます。

やがて見出したのが、救世主としての生でした。
卓司は救世主としての生こそが自分が生きる意味であると気づきます。それは母親から言われていたことでもありました。またこれは後に判明することですが、間宮卓司は既に死んでいます。なのに人格だけの存在として生まれた意味は何なのか。その観点からも、卓司は自らの生まれた意味を救世主としての生に見出します。
救世主として生きることこそが、自分の生きる意味である。少なくとも卓司はそう信じます。そして卓司は生きる力を取り戻していく。
ここで合わせて押さえておくべきは、この時点での卓司が日常の価値を見失っているであろうことです。
卓司はリルルとの問答のなかで、いうなれば時間的に制限づけられたものへの価値を否定されました。いつか終わるものに価値はないからです。ならばこの時点での卓司は、いつか終わるもの…例えば「何もないけれど平和な毎日があと60年くらい続いて、やがて死ぬ」なんていう人生を、幸福だとか良いものだとかは思っていないはずです。60年は無限の前では一瞬ですし、そうしていつか終わるものに意味はないのですから。意味がないことと価値がないことはまた別かもしれませんが、少なくとも作中ではイコールだと見ていいでしょう。
もっとも、作中に「日常なんて無意味だぜ!」みたいな直接的な描写はなかったはずです。だからこれは私の推測ですが、しかし無理な飛躍ではないと思っています。
いつか終わるものは全て無意味で、かつ時間的な長さも意味がない。なぜなら無限の時間の前では全て一瞬だから。この論を踏まえると、卓司とリルルの問答の中にある、1兆年だか1億年だかを旅する描写の意味が少し見えてきます。

「無限の前では全て一瞬だ」というリルルの論を真に受けるならば、1兆年すらも一瞬と同義なわけですから、いまこの瞬間に1兆年を旅することも可能になる。もちろん実際に1兆年を生きたわけではありません。しかしその1兆年分の蓄積が卓司の中にはあり、だからこそ卓司は救世主として目覚めたあと、いきなりケンカが強くなり、やたらと賢くなっているし、本人もこれを当然だと思っている。もちろんこれは単なる勘違いです。ケンカが強いのは皆守と身体を共有しているからであり(そもそも皆守とは精神内での戦いしかしていませんが)、頭がいいのも脳を由岐と共有しているからです(卓司はもともと頭が良かったというのもある)。
…と、この「無限の前では時間的な長さは無意味」という論を卓司が受け入れていることを踏まえるのは、後々大切になってきます。
ではそんな救世主卓司は、では何を目指したのか。
それこそが「世界の限界」を前に、世界を空に還すことです。

ここでいう「世界の限界」とは、もちろん世界滅亡の7月20日です。では「空に還す」とはなにか。これも後に明らかになるように、単なる集団飛び降り自殺以上の何ものでもありません。「世界の限界」=7月20日の世界滅亡も嘘っぱちです。卓司やその手下らは信じ切っていますが、真相は白蓮華協会とWeb bot projectによるペテンです。
更に卓司は全ての背後にあるのは母の意志であるとし、城山やざくろの死すらもその意志によって導かれたものであると考えます。やがて卓司とその信者らは、校舎の屋上から集団で飛び降りて自殺します。卓司の章はここで終わります。
さてここまでを踏まえて、間宮卓司は「世界の限界」に対して何を思い、何をしたと言えるでしょうか。
物語が動くきっかけは、卓司が性暴力により生きる意味を見失うことです。しかし「世界の限界」=7月20日の世界滅亡を思い出し、これを恐怖する。死にたくない、でもなぜ生きる必要があるのか。その苦悩の中で見つける生の意味が、日常の価値を否定した上での救世主としての生です。そこには母の意志があり、ざくろや城山の死も自身の救世主としての使命も、全ては母の意志によるものだと考えます。そして一人でも多くを「空に還す」ことを目指す。その結果、最後には転落死する。死を恐れていたのに結局みずから転落するとは矛盾しているようですが、卓司にとってはアレは自殺ではないのでしょう。
その内実は、単に起こったこと以上の意味は何もない。
「世界の限界」はペテンで、城山とざくろの死も母の意志によるものではない。とうぜん救世主としての生も妄想であり、そんなところに彼の生きる意味などはない。それでも卓司は「世界の限界」を前に、ただの事故死に意味を見出し、日常を捨てて「兆し」へと至ってしまう。この兆しなるものが何なのかは私もよく分かりませんが、とにかく世界の理の外にある事柄なんだと思います。そういうよく分からないものを目指して、最後には「空に還」ってしまう。「空に還る」というのも意味が分かりませんけれども、恐らくこの世界の外側へのアプローチなんだと思います。ここは意味が分からなくて良いのだと思っています。私たちにとってはただの集団飛び降り自殺にしか見えず、実際そうでしかないけれど、卓司らはそこに世界の外側に繋がるような何らかの意味を見出していた。その結果が単なる死であったという話なんだと考えています。
…と、このような各人物の「世界の限界」に対する考えと行動、その結末が、すば日々が示す生き方を考える上で大切なことだと考えています。
しかし間宮卓司の物語だけではまだ見えてこない。次は高島ざくろの物語を振り返ってみます。彼女は「世界の限界」に何をおもい、その結果どんな行動をとったのでしょうか。
高島ざくろ…「世界の限界」を前に、死によって転生を目指す
高島ざくろもまた、間宮卓司と同様に城山らからの性暴力を受けます。その結果やはり間宮卓司と同様、自らを虫けらと見なしてしまう。
ざくろはそんな自らを嘲りつつも、でも死にたくないと願います。しかし糞虫たる自分にいったいどんな生きる意味があるというのか。ざくろは迷います。

そんななか城山が事故で屋上から転落死します。これは単なる事故なのですが、しかしざくろは特別な意味を見出す。もともとは天罰のようなものだと考えていますが、より突飛な考えを抱くきっかけになるのは、ざくろと近い境遇にいると思われる宇佐美と亜由美との出会いです。彼女らはざくろにこの世界の真相を伝えます。
曰く、ざくろらは元々どこか別の世界で戦士として戦っていたが敗北。それにより今の世界に転生したけれども、そのときに呪いのようなものをかけられて今は力を発揮できない。敵はそんなざくろらを追い詰めるために「物理特化符虫」を放ちます。物理特化符虫は人を狂わせる。城山らが性暴力におよんだのはその影響でした。しかし宇佐美らが物理特化符虫を消滅させたことにより、城山は自滅してしまった。
ふたたび悪と戦う力を取り戻すにはアタマ・リバース=転生する必要があり、そのためにスパイラルマタイ=瀕死の状態を経由する必要がある。タイムリミットは7月20日。なぜならその日ハル・メキドにより世界は滅亡してしまうから。

言うまでもなく、これらは全て妄想でしょう。ざくろらの過酷な経験を思えば幻覚を見るほど混乱してしまうのは無理もありません。しかしスパイラルマタイもアタマ・リバースもハル・メキドもどう考えても事実ではない。
しかし、ざくろはここに生きる意味を見出してしまいます。ざくろは城山の死を単なる事故死ではなく物理特化符虫の消滅とし、自らの死=スパイラルマタイに転生=アタマ・リバースを見出し、転生先にある戦士としての使命こそが自らの生きる意味であると確信してしまう。
この時点でざくろは卓司と同様、日常への価値を見失っていると見ていいと考えています。少なくともこの世界の日常の中での生きる意味を見失っていると言えるでしょう。
ではそんなざくろは、どのような最期を迎えるでしょうか。
彼女もやはり、ただ転落死します。そこにはスパイラルマタイもアタマ・リバースもない。彼女はただ死んでしまいます。

まとめましょう。
ざくろも卓司と同様、自らの生きる意味を見失い、やがてこの世界の外側にそれを見出します。それがスパイラルマタイによるアタマ・リバースで迎える戦士としての生です。城山の死は物理特化符虫の仕業で、ハル・メキド=7月20の世界滅亡の前にスパイラルマタイしなくてはならないと信じた。一方でこの世界の日常の価値は見失っていた。
そのいずれもが単なる妄想です。ざくろの生きる意味はそんなところにはないし、世界は滅亡しないし、城山の死はただの事故死です。しかしざくろは世界の外側にある別の生に惹かれて、最後には飛び降りて自殺してしまう。
「世界の限界」を信じ、死に意味を見出し、自身の生きる意味はこの世界の外側にあるとし、最後には死んでしまう。このざくろの物語は、明らかに間宮卓司との重なりがあります。何か通底するテーマを持って描かれていると見ることが可能であると考えています。そのように見ることを私は提案したい。
もちろん差異もあります。卓司は死を恐れた結果として生きる意味を欲しました。ざくろもはじめは同様ですが、宇佐美らと話をしているときはそういう態度ではないように見えます。どちらかというとクソッたれなこの世界ではなく、転生先こそが私の本当の姿…そんなモチベーションでしょう。本記事はこういう差異を、重要かもしれないけれど無視しています。
さてここまでを踏まえて間宮羽咲と悠木皆守の物語を振り返ると、いよいよ本作の示す生き方が浮かび上がってきます。
間宮羽咲…「世界の限界」は存在せず、その先にもずっと日常がある
さて間宮羽咲に関しては、卓司やざくろほどの文量での物語は用意されていません。ただ短いながらも大切な部分があり、ここではそこだけを振り返ってみます。
羽咲は幼いころ、間宮家の事情により沢衣村に移住します。そこで皆守や由岐と出会う。もともとは間宮家にて虐待を受けていた羽咲ですが、村では穏やかに過ごします。しかし悲劇が訪れる。
父親の死です。

父の死に強いショックを受けた羽咲は「世界の限界」を目指します。「世界の限界」を越えれば父の魂に再会できると信じていたからです。
では「世界の限界」とは何か。羽咲にとってそれは向日葵の坂道でした。まだ幼い羽咲にとって坂道の向こうは未知であり、だからそこは世界の果てだと思っていました。そこにいけば父と会える。そう信じた羽咲は世界の果てを目指します。

しかし、そこに世界の限界はありません。世界の果てだと思っていたその先にも、ずっと変わらない日常が続いていることに羽咲は気づきます。

羽咲の物語はこの後も続きますが、本記事の主張に必要なのはここまでです。
さて羽咲は「世界の限界」に対し何を思い、そしてどんな行動をとったか。彼女は主人公ではないぶん提示されるものはシンプルです。しかし卓司とざくろの物語を踏まえれば極めて重要な意味を持っていると言える。
羽咲にとっての「世界の限界」は向日葵の坂道でした。そう信じて坂道の先を目指した羽咲ですが、そこから見えるのは自分と変わらない人々の生活…つまり日常でした。そこで羽咲は気づきます。「世界の限界」は存在しない。世界の果てだと思えたその先にも、今と変わらない日常がずっと続いていることに。
最後に、悠木皆守の物語を振り返ります。
悠木皆守…世界の外側ではなく、いまここからずっと続く日常を選んで
皆守は最初、自分を間宮卓司を消すために生み出された存在で、その目的を終えたら自分は消えてしまうと考えています。そうしていつか消えてしまうならば、生きている間の幸福などはむしろ失う時の痛みをもたらすとし、日常の価値を直視しないようにしています。

ただし皆守は決して日常に価値を感じていなかったわけではありません。なるべく感じないようにしているだけです。

日常を失うことを恐れつつも、彼は自分の役目を果たそうとする。羽咲を守るためです。皆守は自分が卓司を消し、そして最後に由岐が残ることが羽咲を守るための方法だと考えていました…が、卓司が救世主として目覚めたことで、この法則が変化します。
救世主として急速に存在感を強める卓司に、破壊者である皆守は敗れてしまう。ではこうしてルールが書き換わったならば、羽咲を守るのは誰なのか。皆守は明晰夢のなかで由岐から「自分が守りたいと思うなら自分が守れ」と告げられます。この言葉で皆守は自らが羽咲を守ることを決心する。
皆守にとって、破壊者としての運命はすなわち生きる意味でした。それが自分の存在理由であり、それを終えたら消えてしまう。だからこの日常もいつか終わる。終わるならば、そこに価値があったとしても、見ない方がいい。こうして日常の価値を否定し、自らの死を伴うような生きる意味に執着する姿は、どこか卓司やざくろと重なる部分があるように思います。もっとも卓司やざくろは結果的には死に至ったものの、救世主の生や転生を皆守にとっての破壊者の運命のような消滅や死を伴うものとして捉えていたわけではないように見えます。その点でキレイな対比にはなっていない。しかし日常の価値を否定し、自己の消滅を伴うような生きる意味に執着しているという点では共通するでしょう。
その皆守が破壊者としての運命を、つまり自身の生きる意味だと思っていたものを手放し、羽咲と共にある日常を選んだことは、とても重要な何かを示しているのではないかと思っています。

が、それでも皆守は負けます。……この2度目の敗北の意義はちょっとよく分かっていません。↑のスクショのとおり皆守は自身が羽咲を守り、これからも一緒にいることを決心しているのですが、卓司との再戦では主張が一転して、元々あった破壊者の運命を受け入れて消えようとしています。
言っていることが変わってしまった=作り手のミスなのか、あるいは自分の見落としなのかは分かりませんが、まぁとにかく皆守は再び負けてしまう。
その後は記憶を取り戻し間宮皆守として復活します。
では救世主卓司はどうなったのか。由岐は自分が卓司を連れていくと言い、そして皆守は羽咲のところへ、あの向日葵の坂道の向こう側へと行かなくてはならないと言います。

復活した皆守は屋上から転落しつつも一命をとりとめ、その後はエンディングです。
さて最後のひとり皆守は「世界の限界」に対して何を思い、何をしたと言えるでしょうか。
皆守にとっての世界の限界とは、自分が消える日=卓司を消滅させる日です。その破壊者としての使命が皆守の生きる意味であり、そうしていつか消えてしまうからこそ日常の価値を理解しつつも目を背けていました。しかし羽咲の身が危ないと知り、考えを変化させます。羽咲を守り共に過ごすことを強く望んだ皆守は、由岐の協力も得て卓司を退け、身体を取り戻して日常へと戻っていきます。
羽咲は上で書いた通り、世界の限界はないのだと知った人物です。父と別れ、そして向日葵の坂道の向こう=どこまでもずっと続く日常を生きている。しかし皆守はそうではなかった。なぜなら皆守は自らを消えるものだとしていたからです。そのため日常の価値を見ようとはしませんでした。しかし羽咲と共に歩むことを選ぶとは、運命を変えて日常を歩むことへ転換したと言えると思います。
そしてそこでは由岐と卓司との別れがある。由岐は卓司を連れて消えてしまいます。そして由岐と卓司は既に死んでいる=この世界の外側へと旅立った人物でもある。ならばその二人と別れ羽咲と共にあろうとすることは、もともとは生きる意味を世界の外側に見出し、そこへ向かおうとしていた皆守が、日常の中を…向日葵の坂道の先へと再び歩み出す姿を描いたものだとはいえないでしょうか。由岐と別れることは、世界の外側…語り得ない世界の外側との別れでもあったのだとは言えないでしょうか。

4人の物語を踏まえ、何が言えるか
ここまで4人の主要人物の物語を「世界の限界」という壁と、それを前に思うことや行動、結末などの観点から振り返りました。
私ははじめ、すば日々が示す生き方は「この先もずっと続く日常を、世界の外側を思うことなく、生きていくこと」だと言いました。4人の物語を踏まえると、これが浮かび上がってこないでしょうか。
卓司、ざくろ、羽咲、そして皆守。それぞれがそれぞれの思惑で「世界の限界」にぶつかり、多様な行動を起こしますが、その結末は異なります。卓司とざくろは7月20日の予言や性暴力が原因で自らの生きる意味を求め、それを限界の先の外側へと見出します。そのとき日常の価値を否定してしまう。
羽咲は違います。羽咲も父の魂を追って世界の限界を目指しますが、それはないのだと気づく。そこに広がっているのは日常です。世界の限界だと思っていた坂道の向こう側には、日常が続いていました。
皆守もはじめは卓司を消して自身も消滅すること=外側へと向かうことが自身の生きる意味だと信じ、そのため日常の価値を認めつつも直視しようとしない。しかしこれが変化し、最後には羽咲と共にあること、つまり日常を歩むことを選ぶ。
皆守編は作品世界において最後の物語であり、そこで迎えるエンディングはすば日々全体を見渡した上でのエンディング…物語的な結末であると見ていいと思います。そうだとするならば、4人の物語を通して示されるものは何か。
そこで浮かぶ私の考えが「この先もずっと続く日常を、世界の外側を思うことなく、生きていくこと」という生き方である…というわけです。

卓司とざくろは向こう側を見てしまいました。そこにこそ生きる意味があると信じた。その結末は悲劇的なものでした。そして羽咲と皆守は一度はそこを目指しますが、向こう側などないのだと知ります。世界の限界がないならば、そう思える場所にあるのは何か。日常です。羽咲が世界の限界だと信じて上った向日葵の坂道、しかしその先にあるのは日常だったように。卓司やざくろが恐れた7月20日もペテンあるいは妄想であり、その先にもずっと日常が続いています。卓司もざくろも、ついでに皆守も、日常の価値を否定し、限界の先の外側ばかり見てしまいますが、そんなものはなく、そこにある日常を歩み続ける以外の道はない。
このようなことを総合して、すば日々が示す生き方は「この先もずっと続く日常を、世界の外側を思うことなく、生きていくこと」ではないかと考えています。
ここに「生きる意味を探さないこと」も加えられるかもしれません。皆守はエンディングにおける木村との会話において、生きる意味を求めることを、人間をパズルのピースに例えることで否定します。

世界の外側を思うことなく、明日からもずっと続く日常を、その価値を否定することなく歩む。そこに意味を求める必要なんかない。そこではただ、命令にして刻まれた刻印がある。「幸福に生きよ!」。
それでも、世界の外側を思ってしまう私たちの「幸福」とは?
ここまでで、私が思うすば日々が示す生き方を語ってきました。しかし上で述べた通り話はまだ終わりません。すば日々は生き方のほかに、幸福についてもメッセージを残していると考えています。だって「幸福に生きよ!」というわけですからね。
それにいくら「世界の外側を思うな」と言われたところで、私たち人間はどうしても思ってしまう。卓司やざくろのように「生きる意味って何なんだろう」と思ってしまうものです。すば日々はこのような人間の性質に対して、あるメッセージを残しています。
それが「幸福」についてのものである…というのが私の考えです。
ただこれも上で述べましたが、だからといってすば日々は「〇〇をすれば幸福になれるよ」という方法を語っているわけではないと思っています。そうではなくて、どうしても絶望をしてしまう私たちに対して「幸福たれ」と祈ったり願ったりしているのだと思います。
そう思う根拠は、もちろん物語内にあります。ここでは物語内でいちばんはっきりと幸福について語っているであろうシーンをピックアップし、すば日々全体に込められているであろうメッセージを考えてみたいと思います。
そのシーンとは、過去編における由岐と皆守が語り合うシーンです。

かなり長いですが、引用します。ただ必要な部分は都度ピックアップするので、全部読まなくても大丈夫。
【皆守】「神様なんかいない」
【由岐】「神様はいない…世界には…なるほど」
【皆守】「ああ、いるわけが無い…」
いたら…なんで神は俺たち家族をこんな風にしたんだ…。何故、父さんを殺したんだ…
【皆守】「神様って人はさ…」
【由岐】「人じゃないし」
【皆守】「んじゃ、神様ってさ、いたとしても無能で無力などうしようもないヤツだ」
【由岐】「何もしないどうしようもないヤツ?」
「あ、でもさ…それ私も思った事あるよ」
「神様が一週間で世界作った言うじゃん」
「そんなのデタラメだよ」
「だってさ、もし神様が世界を作った様なヤツなら、絶対こう言ってるぜ」
「こんなものは私が作る物ではなかった…」
「それか」
「ちょ、まだ出来てないんだよっ」
【皆守】「ああ…そう思う。…地上にどれだけ悲しい目にあってるヤツがいても無視する様な最低野郎だ」
【由岐】「くくく…もし神様が人みたいなもんならそんな事言われても仕方ないよね」
「たしかに最低なヤツだ」
「万能なくせに何にもしないんだからな…」
「でもさ、皆守はこんな話聞いた事ある?」
【皆守】「話?」
【由岐】「うん、砂浜の足跡…」
【皆守】「何だそれ?」
【由岐】「神は我々と共に歩む…だから、死後、自分が歩いた道を見ると…必ず寄り添う足跡がもう一つ見つかる」
「人生は、寄り添う力で支えられてる…」
「でもさ…一番つらい時、悲しい時に、足跡は一つになってるんだってさ…」
【皆守】「一番つらい時に…そばにいないのかよ…でも、それが神様ってヤツだよな」
【由岐】「違うよ…」
「その時…神は、立ち止まって動けない人の足そのものになってくれるんだってさ…」
【皆守】「自分の足そのもの?」
【由岐】「そう…立ち止まっていると思えた道も…かならず先に進んでいる…」
「まるで、羽咲ちゃんが登れないと思った、あの坂道みたいに…」
「人は先に進む…その歩みを止める事はない」
「たった一つの思いを心に刻み込まれて」
【皆守】「たった一つの思いを刻み込まれる?」
【由岐】「そう、命令にした刻印…すべての人…いや、すべての生命がその刻印に命じられて生きている」
【皆守】「全ての生命を命じる刻印…」
【曲岐】「そうね…その刻印には、ただこう刻まれている」
「幸福に生きよ!」
「猫よ。犬よ。シマウマよ。虎さんよ。セミさんよ。そして人よ」
「等しく、幸福に生きよ!」
【皆守】「何だそれ…」
【由岐】「幸福を願わない生き物はいない…すべての生き物が自らの幸福を願う…」
「そう命じられてるから…」
【皆守】「それって命令なのか?」
【由岐】「さぁね…ただ、実際そうでしょ?」
「人もまた…いいや、人は動物なんかと比べものにならないぐらいに幸福に生きようとし」
【由岐】「そして絶望する」
【皆守】「なんでそうなるの?」
【由岐】「幸福は、それを望まなければ絶望なんて無い」
「あれだよ、動物が絶望しないと同じだな」
【皆守】「でも、動物も幸福に生きようとするだろ?」
【由岐】「そうだよ」
【皆守】「なら、なんて動物は絶望しないんだよ」
【由岐】「そんなの当たり前じゃん。動物は幸福に生きてるからだよ」
【皆守】「なんだよそれ…幸福じゃない動物だっているだろ」
【由岐】「いないよ。動物はいつだって幸福なんだよ」
「死ぬその瞬間まで、すべての生き物は等しく永遠に幸福だ」
【皆守】「なんでだよ」
【由岐】「なんでだろうね」
【皆守】「分からないのかよ」
【由岐】「あはは、そんな事ないよ答えは簡単だよ」
「死を知らない…」
「動物は永遠の相を生きている…」
「だから、幸福に生きようとする動物は、いつだって幸福なんだよ…」
【皆守】「動物って死を知らないのか?」
【由岐】「当たり前じゃない?」
【皆守】「なんで?」
【由岐】「だってさ、本当は誰も死なんて知らないんだからさ」
【皆守】「誰も?」
【由岐】「そう、誰も死なんて知らない…死を体験した人なんかいないんだからさ⋯」
「死は想像…いつまで経っても行き着くことの出来ない…」
「人は死を知らず…にも関わらず人は死を知り、そしてそれが故に幸福の中で溺れる事を覚えた…」
【由岐】「絶望とは…幸福の中で溺れる事が出来る人にだけ与えられた特権だな」
【皆守】「特権って…どう考えても悪いもんじゃん」
【由岐】「そうだね…でも、だからこそ人は、言葉を手に入れた…」
「空を美しいと感じた…」
「良き世界になれと祈る様になった…」
「言葉と美しさと祈り…」
「三つの力と共に…素晴らしい日々を手にした」
「人よ、幸福たれ!」
「幸福に溺れる事なく…この世界に絶望する事なく…」
「ただ幸福に生きよ、みたいな」
【皆守】「ただ幸福に生きよ…か」
(※中略)
【由岐】「もちろん、ずっと、ずっと疑問には思ってた…皆守と同じ様に…」
「神様なんて世界にいない」
「それどころか、この世界に生まれるのは呪いに似たものだって……」
「だってさ、死んじゃうんだからさ」
「どんな幸せな時間も終わる」
「どんな楽しい時間も終わる」
「どんなに人を愛しても…どんなに世界を愛しても…」
「それは終わる」
「死という名の終止符を打たれて…」
「だから、この世界に生まれ落ちるって事は呪いに似たものだと思ってた…」
「だって、幸福は終わりを告げてしまうのだから…」
「それが原因なのかさ…何度か同じ様な夢見てたんだよ…」
【皆守】「同じ様な夢」
【由岐】「そう、夢…赤ちゃんの夢」
【皆守】「赤ちゃんの夢が恐いのかよ」
【由岐】「うん、恐いね…私が泣き出すぐらいに…恐い夢…」
「生まれたての赤ん坊がいるんだよ…誰が生んだのか知らない⋯」
「いや…もしかしたら、私が生んだのかもしれない…」
「だから、私はうれしかったんだと思う」
【皆守】「うれしかったの?」
【由岐】「うん、うれしかった・・・・・・」
「それでさ…その赤ん坊は泣くんだね…おぎゃ、おぎゃ、 ってさ…」
「うれしくて、私とかも笑うんだよ…周りのみんなも一緒に⋯」
「それは祝福なんだよ」
「生命に対する…祝福」
「だってさ、単純にうれしいからさ…赤ちゃんがこの世界に出てきてくれて…ありがとうって…」
「だから世界は生の祝福で満たされる…」
「でもさ…でも私は気がついちゃうんだよね…」
「あ…違うって…」
「その時、私は一人で恐怖するんだよ…すべての笑顔の中で私だけが恐怖するの…」
「だってさ…気が付いちゃうんだもん…その子は世界を呪っているんだってさ…」
「生まれた事を呪っている事に…」
「みんなの笑顔の中で、私だけ凍り付く…祝福に包まれた世界で…一人…」
「その時、私は思うんだ…その赤ん坊の泣き声を止めなきゃいけないって…私は、生まれたての赤ん坊の首を絞めて…その人生をそこまでで終わらせなきゃいけないってさ⋯」
「だって、生まれるって呪いだもん…」
「少なくとも生まれたばかりの子供はそう考えてる…だから⋯」
「でもさ…当たり前だけど…出来ないんだよね」
「おぎゃ、おぎゃ、 って泣いている赤ん坊の首を締めるなんて出来ないよ…」
「なんてだろう…赤ん坊は生を呪っているのに…でも私はその生を断ち切る事が出来ない」
「しなきゃいけないに…出来ない…」
「んでさ…私さ、うわん、うわん泣いちゃうんだよ…そんな事現実では全然ないのにさ…」
「そのうち…赤ん坊の泣き声がね…普通に」
「普通になっているのに気が付くのね…」
「普通に…おぎゃ、おぎゃって泣いてるんだよ…」
「その声を聞きながらさ…私は良かった、と思うんだ…」
「そして、祈るんだよ…この命に幸いあれ…って」
「その意味が今日すべて明かされた」
【皆守】「そうなのか?」
【由岐】「まぁ、皆守にはまだ分からないだろうね」
「でも、私はこの星空を見て、その答えが分かった」
「何故、生まれた赤ん坊の泣き声を止めてはいけないか…」
「何故、人は自分以外の死を悼むのか…」
「そして、その悼みは…決して過ちではなく…」
「正しき祈りなんだってさ…」
「世界を愛する事…」
「世界のすべてが愛で満ちている事…」
「それは祈り…」
「自分が見上げたこの夜空が…祝福されている事…」
「それは祈り…」
「世界は祝福で満ちている…」
「だから人は永遠の相に生きる事が出来る…」
「出来るんだ…」
『素晴らしき日々 ~不連続存在~』より
引用すると長いものの、ゲーム中ではほんのワンシーンです。しかし私はこのシーンは何だか物凄く大切なことを言っているように感じています。このシーンに注目することで、本作が言うところの幸福とは何であるかに迫り、同時に他のシーンの霧も払われるように思います。
そのため、本シーンのみをピックアップし、これをもって本作全体が示す幸福について考えてみることにします。
人は、世界の外側を思わずにはいられない
すば日々が示す生き方は「この先もずっと続く日常を、世界の外側を思うことなく、生きていくこと」ではないかと言いました。しかし実際のところ、私たちは世界の外側を思わずに生きていくことはできません。
そもそも世界の外側とは何でしょうか。すば日々には「世界の果て」だとか「世界の限界」だとか「世界の外側」だとか、世界にまつわる様々な言葉が出てきます。ですがこれらは文言こそそれぞれ違えど、指し示すものは概ね同じだと思っています。これらのワードが共通して指し示すものが「死」だと考えています。
ただし死はあくまでも世界の外側を表すものの一つであり、死以外にも同じようなものはいくつかあると思っています。作中もっとも多用されるのが死であるだけです。ただここでは死を中心にして考えを進めます。死以外のものに転用したとき、うまく当てはまらないかもしれません。
さて世界の外側の一種が死だとして、私たち人間は死を思わずに生きることができるでしょうか。私は無理だと思います。私たちはどうあがいたって死を思ってしまう。
由岐は語りのシーンにて、以下のように言います。
【由岐】「そう、誰も死なんて知らない…死を体験した人なんかいないんだからさ⋯」
「死は想像…いつまで経っても行き着くことの出来ない…」
「人は死を知らず…にも関わらず人は死を知り、そしてそれが故に幸福の中で溺れる事を覚えた…」
※太字での強調筆者

死は誰も体験したことがない。だから経験したかのように語ることはできない。しかし、それでも人は死を知っています。私たちは誰もがいつか死ぬことを知っている。ニュースを見ればそれこそ毎日のように多くの人が理不尽な理由で死んでいます。
これほど身近な死について、いくらハッキリ知らないとはいえ考えずに生きることなんてできやしません。卓司もざくろも羽咲も皆守も、みな死あるいは死と同様の消滅について思いを巡らせていたように。だから「この先もずっと続く日常を、世界の外側を思うことなく、生きていくこと」だなんて、いってしまえば理想論です。ここでいう世界の外側を死と仮定したならば、考えないことなんでできない。そうできたら誰も苦労はしない。
死を思うとき、転じて生きる意味に悩むこともあるでしょう。普遍的な悩みです。ざくろや卓司ほど過酷な環境ではなくとも、あるいはもっと過酷な環境にある方もいるでしょうが、誰もが「どうせいつか終わる人生を頑張る意味ってあるんだろうか」だなんて思うことがあるはずです。由岐は「人は死を知り、そしてそれが故に幸福の中で溺れ」るのだと言います。これは上記のようなことを述べているのではないか?と考えています。

そうして生きる意味に悩むとき、日常への価値が分からなくなることがあると思います。そもそも「わたしが生きる意味とは?」と悩むとき、今まさに自分が生きていることの意味を疑う態度がある場合が大半でしょう。ならばそのとき、自分がこれまで過ごし、またこれから死ぬまで過ごすであろう日常には意味がないのではないか、価値がないのでないかと思っているのかもしれない。
卓司や皆守もそうでした。いつか消滅するのならば…と、日常の価値を否定したり、あるいは目を背けていた。ざくろはやや違う経緯を持っていますが、日常の価値を否定していたのは二人と同様です。由岐はこういう状態を指して「幸福の中で溺れ」るのだと言っているのではないかと思っています。ただこれもやはり一例で、幸福の中で溺れる人=生きる意味に悩む人ってことではないはずですけれども。

しかしここで気になるのは、由岐はあくまでも、人は「幸福の中で溺れ(※強調は筆者)」るのだと言っていることです。幸福を失って溺れるのではない。すでに幸福の中にあり、しかしそこで溺れてしまうのだという。
これはどういう意味でしょうか。
全ての生き物は、等しく永遠に幸福である…?
人は溺れる。ただし幸福の中で。つまり生きる意味だ何だで悩むとき、人は既に幸福の中にあるのだと由岐は言っている。いったいこれはどういう意味なのか。
これは由岐の直前の発言を振り返ることで、何となく意味が分かってくると思っています。
【由岐】「幸福は、それを望まなければ絶望なんて無い」
「あれだよ、動物が絶望しないと同じだな」
【皆守】「でも、動物も幸福に生きようとするだろ?」
【由岐】「そうだよ」
【皆守】「なら、なんで動物は絶望しないんだよ」
【由岐】「そんなの当たり前じゃん。動物は幸福に生きてるからだよ」
【皆守】「なんだよそれ…幸福じゃない動物だっているだろ」
【由岐】「いないよ。動物はいつだって幸福なんだよ」
「死ぬその瞬間まで、すべての生き物は等しく永遠に幸福だ」
【皆守】「なんでだよ」
【由岐】「なんでだろうね」
【皆守】「分からないのかよ」
【由岐】「あはは、そんな事ないよ答えは簡単だよ」
「死を知らない…」
「動物は永遠の相を生きている…」
「だから、幸福に生きようとする動物は、いつだって幸福なんだよ…」
※太字での強調は筆者
由岐は、動物は死を知らない。だから幸福に生きようとする動物は、いつも幸福なんだと言います。
上で述べた通り、動物のみならず人間だって死を知りません。誰も死んだことがない以上、死を経験可能なものとして語れる人はいないはずです。しかし人は自分がいつか死ぬことを知ってしまった。だからこそ日常の意味や価値を否定してしまう。
一方で動物はどうでしょうか。もちろん動物だって死という概念くらいは持っているでしょう。だから襲われれば反撃したり逃走したりするし、タマゴや子ども守るために様々な策を練る。しかし、動物は「どうせいつか死ぬんだよなぁ…」とか「どんなに子どもを育てても、どうせいつか滅びるんだよなぁ…」みたいなことは思わないのではないでしょうか。そうだとするならば「いつか死ぬ自分がいまこうして生きる意味って?」というロジックで悩むこともないはずです。由岐がいう「動物は死を知らない」とは、つまりこういうことを言っているのではないかと思っています。
更に、ちょっと飛躍が大きいですが、これは今ここにある日常の価値を疑ったりしないこと、もっと良いものがあるのだと夢想しないことまでも含意するのではないかと思います。例えば「こんなことをしていていいんだろうか?」だとか「もっと良い人生があるはずだ」だとか、あるいは「こんなことがあるなんておかしい」だとか「これはこうあるべきはない」のような。動物はこうして今を否定することをしない。
しかしだからといって動物の中身は空っぽで、何も考えていないのだと言いたいのではない。そこには間違いなく、刻印がある。それが「幸福に生きよ!」です。

具体的な形は万別なれど、生命は例外なく幸福を目指すはずです。その意味で「幸福に生きよ!」という命令は、全ての生き物の魂に刻印されていることだと言えるでしょう。そして今現在を「意味ない」とか「もっといい形があるはず」と否定しないならば、常にその「幸福に生きよ!」の刻印のもと、幸福に生きている。
由岐はこのような状態にあることを「幸福の中」と言っているのではないかと思っています。……ただ、ここはちょっと難しいなと思っています。動物だって「より良く生きるぞ」と現在を改善することは常にやっているはずだからです。これは私の考えが誤っているのか、ゲーム側が曖昧にしているのか…よく分かりませんが、とりあえず上記の理解でいきます。
さて動物がこうして幸福に生きる一方で、繰り返すように卓司や皆守、ざくろは違いました。彼、彼女らは今この日常を否定し、そうではないところ…世界の外側へと向かうところに生きる意味を見出した。
そして、本来は人間だって死を知りません。しかし人は知ってしまった。誰もがいつか自分が死ぬことを知り、だからこそ「幸福に生きよ!」の刻印のもとにあっても、ここではないどこかを思わずにはいられない。
由岐が「幸福の中で」と言ったのは、つまりこういうことなのではないかと思っています。
しかし、死への恐れは「普通」になる
死を知ってしまったがゆえに、幸福の中で溺れる人間。
すば日々はこの様子を、ある例え話で言い表しているように思います。作中何度か登場する「世界を呪って泣く赤ん坊」の話がそうです。

「生まれたての赤ん坊がいるんだよ…誰が生んだのか知らない⋯」
「いや…もしかしたら、私が生んだのかもしれない…」
「だから、私はうれしかったんだと思う」
【皆守】「うれしかったの?」
【由岐】「うん、うれしかった・・・・・・」
「それでさ…その赤ん坊は泣くんだね…おぎゃ、おぎゃ、 ってさ…」
「うれしくて、私とかも笑うんだよ…周りのみんなも一緒に⋯」
「それは祝福なんだよ」
「生命に対する…祝福」
「だってさ、単純にうれしいからさ…赤ちゃんがこの世界に出てきてくれて…ありがとうって…」
「だから世界は生の祝福で満たされる…」
「でもさ…でも私は気がついちゃうんだよね…」
「あ…違うって…」
「その時、私は一人で恐怖するんだよ…すべての笑顔の中で私だけが恐怖するの…」
「だってさ…気が付いちゃうんだもん…その子は世界を呪っているんだってさ…」
「生まれた事を呪っている事に…」
※太字での強調筆者
世界を呪っているとはどういうことか。これはつまり、いつか必ず死ぬことを約束されたがゆえのの恨みのようなことを言っているのだと思います。作中にもそういう話が何度かあります。

生まれた以上いつか死ぬことは避けられません。死への恐れから泣く赤ん坊の話は、正に死を思って溺れてしまう私たちのメタファーだとは言えないでしょうか。
しかしこの赤ん坊の話には続きがあります。曰く、赤ん坊は始めは世界を呪って泣いているけれど、いつしかその泣き声が「普通」になるのだという。これはどういうことか。
「そのうち…赤ん坊の泣き声がね…普通に」
「普通になっているのに気が付くのね…」
「普通に…おぎゃ、おぎゃって泣いてるんだよ…」
「その声を聞きながらさ…私は良かった、と思うんだ…」
私はこの泣き声が普通に変わる様を、死へと向かう恐ろしい毎日が気がつけば当たり前の日常になっていることを表しているのだと思います。
どういうことか。
いつか死ぬことは避けられません。しかも死はどんどん近づいています。朝、目を覚ますたびに私たちは徐々に死んでいっているのかもしれない。しかしだからといって布団から出るたびに泣くことはないはずです。死は確かに近づいているけれど、それを恐れることもあるけれど、しかしそれはやがて日常になっていく。普通になっていく。誰もがそうして生きていく。
泣き声が普通になるとは、このような状態を表しているのではないでしょうか。
これを上記の話と繋げれば、私たちは死を思い、ときに幸福の中で溺れることがある。しかしその日常は、やがて普通になる…そんなことを伝えていると解釈できるように思います。私は上で、本作が示す生き方は「この先もずっと続く日常を、世界の外側を思うことなく、生きていくこと」ではないかと言いました。それとここまでの死への恐れ、普通になる泣き声の話は、どこか繋がっているように感じます。
ただこれは強引な結び付けであるかもしれません。私が上記の生き方を導き出したのは、卓司やざくろ、皆守らの物語からでした。そしてそれぞれは死を恐れたり生きる意味に悩んだりしましたが、細かい背景は全くことなります。例えばざくろの場合、恐れていたのは糞虫たる自分が生きる意味を見出せないことであって、赤ん坊の話のような「いつか死んでしまうことが恐い」ではありませんでした。ざくろは生きる意味を転生に求めましたが、そのとき死ぬことを恐れて泣いていたわけではない。ならば「その日常も普通になるから」なんていう助言は彼女には意味がないかもしれない。その普通の日常こそが苦しいのだから。でもそういう差異を無視して、大まかにピックアップすれば結びつけることが可能ではないか、強引かもだけど…という話です。
そもそもの話、私が解釈した「幸福の中で溺れる」は「いつか死んでしまう私って、生きる意味あるのかな?」という感覚で、これは死を恐れているというよりは受け入れて諦めています。これに対して赤ん坊の話では「死を恐れて泣いている」と解釈していますから、根本的に話が繋がっていないのかもしれない。統一できるような考えを打ち出せていないのかもしれない。
…が、それでも何か共通するもの…それは断片的で恣意的なピックアップなのかもしれませんが、例えば死への恐れ、いつか死ぬ自分が生きる意味の悩み、限界は無くどこまでも続く日常…そういういくつかのキーワードを通して、由岐の語りと他4らの物語が結びつくように思っています。

私たちはいつか死ぬ。その死自体を恐れる。あるいは死を受け入れたとして、ではいつか死ぬ自分が生きる意味って…と悩む。そうしている間にも死は近づく。しかしその日常はいつの間にか普通になっている。泣き声は普通になって、私たちはどこまでも続く日常を生きていく。
ではその生き方の中で、幸福はどこにあるのか?
由岐は言います。それは祈りだと。
「普通に…おぎゃ、おぎゃって泣いてるんだよ…」
「その声を聞きながらさ…私は良かった、と思うんだ…」
「そして、祈るんだよ…この命に幸いあれ…って」
※太字での強調筆者
日常の傍らにある「幸福たれ」という祈り
生まれた瞬間から死んでいく人間。ときにその死を思い溺れることがある。しかし物語は「この先もずっと続く日常を、世界の外側を思うことなく、生きていくこと」を語っている。その日常は死への恐れと共に始まるかもしれないけれど、いつしか日常になる。
ではそのとき幸福はどこにあるか。本作が打ち出す「幸福に生きよ!」の幸福はどのようなものであるのか。
それは日常の傍らにある祈り。「この命に幸いあれ」の祈り。本作が示す幸福とは、この祈りなのではないかと思っています。

私たちは死んだことはないけど、死を知っています。時にそれを恐れます。それを思わず生きるのが良いけれども、それはできない。だから日常の中で立ち止まってしまうこともあるでしょう。世界の外側を思い、いまそこにある日常ではない日常…「もっとこうなればいいのに」だとか「これはこうあるべきだ」だとか、そういうものを思ってしまう。死んだことはないけれど、死を悲しいもの、恐ろしいものだと思ってしまう。
こういうことは愚かなのでしょうか。少なくともすば日々はそうは言っていないように感じます。
そうして外側を思うことができるからこそ、その命に幸福がありますようにと祈ることができるからです。一方で動物のように、ただそこにある今を否定することなく生きること、「幸福に生きよ!」の命令のままに幸福に生きることはできない。だけど今ではないいつか、ここではないどこかを思うことができるからこそ「より良い今がアナタにありますように」と夢想することもできて、これを祈ることができる。
そうして私たちの日常の傍らに祈りとしてあるのが、本作の言う「幸福」なのではないでしょうか。
「素晴らしき日々」とは何か?
ここまでで、私が考えるすば日々が示す生き方、そして幸福を語ってきました。
生き方は「この先もずっと続く日常を、世界の外側を思うことなく、生きていくこと」です。そして幸福は、その日常の傍らにある「幸福でありますように」という祈りなのではないか…としました。これを踏まえて、タイトルでもある「素晴らしき日々」とは何か?を最後に考えてみます…といっても、ここまでの話を統合するだけですが。
さてここまでの話で私が主張する生き方と幸福、ぶっちゃけるとこれはちょっと矛盾しています。だって生き方では「世界の外側を思うな」という一方で、幸福では「よりより今がありますように」みたいな感じで、世界の外側を思ってしまっているわけですからね。
これは作品が抱える矛盾ではなく、あくまでも私の解釈が抱えている矛盾な可能性があるということに注意してください。もちろん作品と両方が矛盾している可能性もありますが、解釈だけが矛盾している可能性もある。
ただ私の考えでは、すば日々は世界の外側を見ること、そうして日常の価値を否定してしまうことを良くないこととする一方で、しかしそういう人の特性を踏まえて、だからこそできることの良さも語っているのではないかと思っています。
卓司やざくろ、皆守のように、今を否定してしまうことはないように。しかしその力…ここではないどこかを思う力があるからこそ、より良い今を願ったり、祈ったりすることもできるのだとも言えるはずです。すば日々はこの両面に触れているのではないでしょうか。つまり矛盾しているようで矛盾していない。だから転落死してしまったざくろや卓司を、ただ愚かな人として見なしているわけでもないのかもしれません。
そういうものだとして、では素晴らしき日々とは何か。
それは死への恐怖から始まり、やがて普通になったその後の日常です。世界の限界はどこにもなく、日常はただずっと続いていく。それでも立ち止まってしまうことはある。世界の外側を見て、今を否定してしまうことがある。でもそうして恐れる日常も、やはりいつか普通になる。その傍らには、あなたの幸福への祈りがある。
このようなものではないか…と結論づけたいと思います。
じつはこの「素晴らしき日々」をもっとも強く表しているのは、高島ざくろ編のアナザーエンドではないかと思っています。
ざくろは城山らに立ち向かう決心をすることで、戦いを経て日常へと戻っていきます。城山らに立ち向かうことは恐ろしいはずです。しかしその恐ろしさを前に一歩を踏み出すことが、ざくろにとって最も幸せであろうエンディングに繋がっている。それは恐ろしさを抱えながらも一歩進んだ先に日常がある…そんな物語であり、これこそすば日々がもっとも表現したかったものなのではないかと思うのです。

【終わりに】どうか、この記事に惑わされないでほしい。
大長文に仕上がった本記事もいよいよ終わりです。
さて散々書いた後にひっくり返すようなのですが、どうか読者の皆さんは、この記事に惑わされないでほしいなと思います。
本記事は「『すば日々』はこういうことを示しているんじゃないか」という話をしてきました。その主張の根拠も私なりに提示しました。が、ここには当然ですが恣意性があります。
私は私の結論のために、それに使えそうなものだけをピックアップして、使えるように解釈をしています。だから本記事で言っていることには、物語と矛盾していたり説明がおかしい部分がたくさんあります。つまり私は私の言いたいことのために作品を歪めている。
そんな歪んだ解釈を鵜呑みにして、作品内の具体的な描写を無視することはしないでほしいなと思います。だからこそ本記事はあくまでも提案であるとしたい。いち提案に縛られてしまうと、それに適合しないものを無視したり、歪めてしまうことがあります。それに気を付けてほしい。
そもそもの話、すば日々は「こういうことを言いたいんだ」という単純な主張をするゲームではない…つまり物語を統一するような解釈を打ち出して、その解釈のもとムリヤリ統合するようなプレイを嫌うゲームなんじゃないかとすら思います。
ならこんな記事かくなよって話なんですが、それでもこれは私にとって必要な記事でした。その理由は…このあとの「おまけ」で書きますので、興味のある方はどうぞ。
また以前から予告していた通り、本記事は当ブログ最後の記事になります。書くこと自体はやめません。ただ今後はnoteでやっていきます。
4月4日ごろ、当ブログには管理者以外アクセスできなくなります。そのため読みたい記事がある方は今の内にお願いします。ただ本記事含めて一部記事はnoteに移植する予定です。
長い間ありがとうございました。
【おまけ】なぜ、当ブログ最後の記事に『素晴らしき日々』を選んだのか
私がすば日々を初めて遊んだのはもう10年以上前になります。
その時は本当に「意味が分からない」以外の感想はありませんでした。だからこそ「いつか分かってやる」という悔しさを私に植え付けた…すば日々はそんなゲームです。

