人の解釈は何からでも、何へでも広がってゆくのだ…。
例えば先日、壁にテープで貼ったバナナが9億円で落札されたニュースがありました。
落札者曰く、このバナナは「これは単なる芸術作品ではない。芸術や暗号資産のコミュニティをつなぐ文化の象徴だ」とのことですが、ふつう、私たちはこの解釈に同意はできないでしょう。このテープで壁に貼っただけのバナナのいったいどこに文化が象徴されているというのでしょうか。
とはいえ、別に私は落札者の解釈を否定したいわけではありません。私が思うのは、人間はどのようなものからも何かを想像できるんだということです。沈む夕日に悠久を感じることもあるでしょう。道端に捨てられたアイスの棒に人心の荒廃を見ることもあれば、夜空の星にアカシックレコードの実在を感じ取ることもあり得る。
このような各々の解釈、感じ方は自由にあっていいと思います。
しかし、この各々の解釈が問題になるケースもあります。
その一つが、解釈を前提にしようとするときでしょう。
上記のバナナで言うならば、落札者が個人的に「文化の象徴だ。だから素晴らしいのだ。」と解釈するのは自由です。しかし、もし落札者が私たちに向かって「君もそう思うだろう?」と問いかけたとしたら、そのときにこそ解釈を前提にしようとする問題が発生します。落札者には文化の象徴に見えるバナナも、私たちにとってはただのバナナにしか見えないのですから、それを文化の象徴だと同じように思うことはできない。
今回の主題である『Slay the Pricess』は、正にこのような解釈を要求する作品であると感じました。本作は物語の大部分を極めて抽象的に語ります。そのため何がどうなっているかを知るには、各々が描写から解釈を働かせる他ないでしょう。
一方で本作は「哲学のゲームだ」という評価をたびたび見かける作品でもあります。作品内に込められた哲学的なテーマを高く評価する声があります。しかしそれは、上記のような…バナナを文化の象徴だとして評価するようなことと、何が違うのでしょうか。そこに疑問を抱いています。
今回はそんな感じの話を。
抽象からは、どのようなものも読み取れる
『Slay the Princess』(以下、スレプリ)はとても抽象的な物語が展開される作品です。抽象的であるがゆえに、どのようにも解釈できるでしょう。ではそれを「哲学だ」と断定することはできるでしょうか。その断定をもとに評価することはできるでしょうか。
とても抽象的なスレプリの物語
スレプリの物語はとても抽象的です。
事の起こりこそ「プリンセスを殺す」という単純な目的からですが、進めるにつれて「うつろ」や「運命」などにまつわる、普通にプレイするだけでは理解が難しい言動が続きます。抽象的であるため、プレイヤーの解釈次第でいかようにも受け止められるでしょう。
スレプリの物語は展開もセリフもとにかく抽象的です。キャラクターが何を言っているのか、そして今は何が起こっているのか、それは何故なのかを分かりやすい形では説明しません。そのため普通に受け止めれば何を言っているのかさっぱり分からないと思います。
以下、一例として引用します↓
私たちは実在する。「無」とは「何か」が存在しない場合を表す。だが、「無」はそれ自体では存在できない。つまり、それゆえに「無」は存在できない
『Slay the Princess』より
ほんのワンシーンですが、なかなか抽象的な話をしているのが分かると思います。スレプリはほぼ全編にわたってこのような話をするため、普通に遊んでいるだけで全容を把握することは困難でしょう。
とはいえ、私は話が抽象的なことをダメだとは思いません。分かりづらいものには分かりづらいものの魅力があると思っています。それが何かといえば、一つは解釈を立てられる魅力がそうでしょう。
抽象的なものは抽象的であるがゆえに、受け手が様々な方向へと解釈できます。上記の引用なら、単に意味わかんない文章と終わらせることもできますが、一方でハイデッガーの存在論への言及として捉えることも可能でしょう。
一般に、抽象性が高いほどそれは広く様々な物へと適用可能な話になる。そのため抽象的なものを受けた人は、その抽象を足掛かりに、自分なりの解釈を打ち立てられます。何の意味もなさそうに見えたものが、実はアレやコレに繋がっていたと解釈できる…まるで夜空に星座を結んだ先人のような体験がそこにはあり、それは楽しさを含むと思います。
例えば私が「あらゆるものは全体性への統合と分離を繰り返し、やがて全体性という個へと回帰するのだ…」と言ったとします。これは私が即席で考えたそれっぽい感じの文章なので、特に何も意味していません。しかし受け手は、これを料理の話だとも、人間関係の話だとも、あるいは西洋哲学の話だとも受け止められるでしょう。その解釈は受け手次第であり、何をどう読み取ろうと間違いはありません。正解もありませんが。
ですから私は、抽象的なものに各々が解釈を立てることは特に何とも思いません。自由にやって良いと思います。
一方で私が疑問を持っているのは、各々の「これは○○だ」という解釈を前提にし、その解釈の対象を評価をすることです。上記のバナナで例えるならば「これは文化の象徴だ」という独自の解釈をもとにして「このバナナは素晴らしい芸術だ」と評価することです。文化の象徴だと解釈することは自由ですが、それを根拠に素晴らしいと言えるかは難しいと考えています。
スレプリは哲学の話なのか?
スレプリの上記のような抽象性に対し「哲学的な内容だ」とする評言を少なからず見かけます。
私はこの意見に反対はしません。ただし本当に哲学的な内容といえるのか…この点には注意せねばならないと考えています。スレプリほど何を言ってるのか解読しづらいものに対して「これは○○だ」と断定するのは、多分に解釈を含むと思うからです。解釈=直接は書かれていないことの読み取りだとすれば、「スレプリは哲学だ」と言う解釈込みの評価は、書いていない事柄を前提にした評価になってしまいます。
抽象的なスレプリが、何らかの解釈を見出す楽しみを持つことは否定しません。だからスレプリを「哲学だ」と感じることも間違いだとは思わない。
しかし何が書いてあるのか分からないくらい抽象的である以上、それが本当に哲学なのかは分からないとも思います。なぜって、どうしてこれほど抽象的な話を「哲学だ」と断定できるのでしょう。なぜ何が書いてあるのかが分からないのに哲学だと言えるのでしょう。それは哲学なのかもしれないし、意味不明な怪文書なのかもしれない。もしかすると特に意味はないのかもしれません。イヤな言い方をすれば、周回プレイのモチベーションを喚起するためにあえて超適当に、何か意味あるっぽいことを書いてみた!くらいの話かもしれません。何が書いてあるのかがよく分からなければ、このような多様な解釈はいずれも成立すると考えます。そしてどれも正しく、どれも正しくはない。
もちろん、スレプリの抽象性を理解しきれないのは私の不勉強が原因である可能性はあります。読解力や哲学への知識が不足しているため、何が書いてあるのか理解できていないのかもしれない。ですからスレプリに何が書いてあるのかがしっかりと理解できて、そのうえで「哲学だ」と断定する人がいるのならば、私はそれに対しては反論できません。
しかしそうでなく、解釈のレベルで…ちょっと悪しざまな言い方になりますが「なんか哲学っぽいことを言っているから哲学だろう」のレベルで哲学だとしているのならば、それはあくまでも「私は哲学だと解釈した」という話であり「スレプリは哲学のゲームだ」というのは言い過ぎだと思います。
解釈はいかようにも立てられます。壁に貼ったバナナが文化の象徴に見える人もいるように、どのようなものも、解釈次第でどのようなものにでもなる。解釈の対象が抽象的であればなおさらです。そして「存在」や「私」みたいなタイプの抽象は、往々にして哲学に結び付けられがちです。ではそれは本当に哲学か、適当なそれっぽい話なのか。
スレプリに解釈の余地が多くあり、そしてそれが恐らく意図的に含まれており、解釈を広げていく楽しみがあるゲームだということは間違いないと思います。だからスレプリを「哲学のゲームだ」と感じながら遊ぶことは自由でしょう。
しかし確かな根拠を持たない「哲学だ」という解釈を前提にゲームを評価することには、私は違和感を覚えます。
それは壁に貼ったバナナを「文化の象徴だ」と解釈したうえで、それを前提に価値ある芸術作品だとして位置付けようとする行為だからです。
とはいえ壁に貼ったバナナを「様々な解釈ができる芸術作品だ」とすることはできる。スレプリも同様であり、様々なものを読み取る楽しみを持っている作品であるとは言えるでしょうが、「哲学の話をしている」と断定することは…少なくともかなり難しい。私はそう思います。
バナナを文化の象徴だとして評価するのか、その一歩前…ただのバナナとして、しかしどのようにも解釈でき、そして解釈する楽しみを持つものとして評価するのか。私の立場は後者ってわけです。
とはいえ、解釈とそうでないものを正しく分離できるか?
やいのやいの言いましたが、一方で解釈と解釈でないものをどう正しく分けるかは難しいところだと思います。
ADVの、しかも物語への評価をしようと思えば、一定程度は「これは○○の話だ」という読み取りが入り込む場合は少なくないでしょうし、私も知らず知らずのうちにやってしまっていることだろうと思います。
また解釈は解釈でも、多くの人に受け入れられるであろう解釈と、そうでない解釈が存在しますから、解釈を前提することは決してやってはいけないことだとも思いません。
私が打てる対策としては、せいぜい飛躍しすぎないこと。そう解釈できるだけの確かな根拠(確かな根拠とは?って話になりますが)を自分なりに持つこと、そして解釈に立つ場合は「解釈に立ちます」と宣言することくらいでしょうか。
そのためスレプリも「これを哲学のゲームだと解釈した上で評価します」だったら良いのだと思います。
終わりに
いちおう書いておきますと、私はスレプリを結構面白いゲームだと思っています。ただそれは解釈云々ではなく、単純な分岐パターンの豊富さと、そこに光る想像力についての話です。「プリンセスを殺す」という主題からは全く予想できない多様な物語分岐は、万華鏡的に景色の変化を楽しむ遊びがあったと思います。
また上ではあんなことを言いましたが、確かに哲学っぽい話をしているなと思っています。ただ私には哲学っぽい以上のことは見えてきませんし、「っぽい」だけで本当に哲学かどうかは分かりません。そして哲学はよく抽象的な話をしますから、それっぽいワードが並んでいると、それだけで何となく哲学に見えてしまうものだと思っています。私のような素人からは特にそうでしょう。
今回はそれについての違和感をぶつける話をしました…が、スレプリ自体は一見の価値あるゲームだと思いますので、興味のある方はぜひ。