『鳥類弁護士の事件簿』を遊んだ。いくらか明らかな欠点はあれど、おおむね良いゲームだった。
やはり特徴はアートワークとサウンド。キャラクタービジュアルはいずれも19世紀に活躍した画家
J.J.グランヴィルのものが用いられており、BGMはこれまた実在の作曲家
カミーユ・サン=サーンスをはじめ、著名な人物の作品をいくつも(こちらはオリジナルもあり)。
クラシックがBGMに使われる作品は他にもいくつかあるけれど、キャラクタービジュアルまで実在の画家の作品を…というのは珍しい。こんな離れ業をやってのけた本作は、ミドルプライスながらハイソサエティ。それでいてテキストはギャグセンスに富んでおり、このミスマッチが奇妙にハマってユニーク。こりゃ面白い。
ゲーム後半は一転して驚くほどスケールアップしていくけれど、何せ素材が素材だから違和感が全くない。むしろ本来の形に整っていくようにも感じられる。
バックログがない(!)、任意のタイミングでセーブできないなどもったいない点はあるし、事件の真相はやや平凡と言うか、予想を裏切る力に欠けているように思う。とはいえ独自の魅力を発揮しているゲームで、マニアならおさえておきたい一本と言っていいでしょう。
…が、実は私、本作には高評価をつけることはできない…と思いながら遊んでいました。
なぜならば本作、全体を通してエピソードの後味が妙に悪い。
いずれのエピソードも、被告人の無実を証明して大団円…とは落ち着かない。
その後にもう1展開あり、ネタバレを避けて言うならば、プレイヤーのテンションを下げる方向でオチをつける。はっきり言ってモヤモヤする。これは良くないと思った。
せっかく気持ちよく勝利したのに、なぜこのようなオチをつけてしまうのだろう。ぬか喜びをさせられたことに、行き場のない怒りというか悲しみというか、そんな感情が残る。言うなれば本作は
「逆転の爽快感」とでも呼ぶべきものがない。ないだけならまだしも、自ら水をブッかけて消しにかかるのだから実にもったいない。
これでは高評価はつけられない。ああ本当にもったいない。
と、ここまで考えて、ふと思った。
なぜ私は、「逆転の爽快感がない=良くないゲーム」と決めつけてしまっているんだろう?
『逆転裁判』を基準にしてしまう私
『鳥類弁護士の事件簿』は、法廷ADVの一種と言っていい作品だと思う。そしてこのジャンルの代表作と言えば、それはもうゲーマーの皆さんなら、例え遊んだことがなくとも名前は知っているでしょう。
『逆転裁判』だ。
『逆転裁判』はタイトルにもある通り、逆転の気持ちよさを味わえるゲームだ。
泣いて無実を訴える被告人(例外多々)の味方となり、証言台でふんぞり返る真犯人に「異議あり!」をつきつける瞬間の気持ち良さったらない。慌てて取り繕う真犯人。次から次へと出るボロ。畳み掛けるように証拠をつきつけ、真相を解き明かす。勝利。笑顔で感謝を伝えてくれる元被告人の姿を見ていると、思わず「ムフフン」とにやけ笑いが…。
このような気持ち良さは『逆転裁判』の大きな魅力であり
『鳥類弁護士の事件簿』に欠けている点だ。だからこそ私は低評価…とは言わないまでも、中の上くらいに落ち着けるつもりでいた。でも、ここで疑問に思った。
果たして『鳥類弁護士の事件簿』は、逆転の気持ち良さを狙った作品なんだろうか?
『鳥類弁護士の事件簿』には、法廷を舞台にし、証拠品を集めて被告人の無実を証明し、同時に真犯人を暴く遊びがある。
これは『逆転裁判』とよく似ていて、だから法廷ADVとして同じジャンルの作品だと考えることには、問題ないと思う。ただ一方で
『鳥類弁護士の事件簿』が『逆転裁判』と同じようなプレイフィール…逆転の爽快感を狙ったゲームかどうかは、わからない。
少なくともタイトルやパッケージ裏には「逆転」や「爽快感」の文言は一切ない。ならば本作は、そもそもそんなものはハナっから目指しておらず、正に私が問題点だとした後味の悪さこそが狙ったものである可能性は、やはり排除できない。「イヤミス」なんて言葉もあるように、後味が悪くてスッキリしない物語はいつだって需要があるし、何より私も結構好きだ。
『鳥類弁護士の事件簿』が逆転の爽快感を狙って作られたゲームならば、やはり高評価はつけられない。しかし、それとは全く違う味付けを、後味の悪いシナリオを目指していたのなら…なるほど、確かに狙い通りの仕上がりになっている。
法廷ADVの全てに逆転や爽快感が必須なわけじゃない。にも関わらず、そのようなものがないという理由で評価を決めるのは『逆転裁判』に引っ張られた…もはや比較してしまった上での評価ではないだろうか。
それは『鳥類弁護士の事件簿』単体の評価とは言えない。そしてビデオゲームにおいて、このようなものでないとダメ…という基準はない。だから『逆転裁判』を基準にして作品を評価することは、けっこうキケンな行為だ。ましてやシナリオレベルの爽快感とか後味とかは、個人の好みの範疇ですらある。感想文ならともかく、レビューだの評価だの、あるいはよりハイレベルに批評だのと銘打ってテキストを書くのならば、そのよう個人的な好き嫌いを、一切加味しないのは難しいとしても、入りすぎないようにするべきだと思う。
名作を基準にしすぎてはいないか?
この世には名作がたくさんあって、それを基準にするなというのは難しい。
2Dジャンプアクションを遊べば『スーパーマリオブラザーズ』が頭に浮かぶし、見下ろし視点のアクションアドベンチャーを遊べば『ゼルダの伝説』っぽいな、と思わずにはいられない。
だがその作品の評価を決定するとき、マリオやゼルダと同じ面白さを味わえたか?という基準を用いるのは、時として大きな誤りになり得る。マリオやゼルダを目指して作りました、と明言されているのならば良いけど、そうでないのならば「マリオやゼルダが好きな私」の、個人的な好き嫌いが多分に入っている恐れがあるからだ。
例えば
「COM戦が最高に面白い格闘ゲーム」
「ボタンを一切押さなくても全曲クリアできる音ゲー」
「むしろ弾を避けたら減点になるSTG」
とか、こんなゲームがあったっていいのだ。対人戦が面白くないからこの格闘ゲームはダメ…という評価は、対人戦の面白さをウリにした格闘ゲームを基準にしている。別に対人戦を第一としていない格闘ゲームがあってもいい。大切なのはそのゲームがどのようなものを目指していて、その目指したものが得られるかどうかであって、同ジャンルの名作と比較してどうか…ではないはずだ。
とはいえ、開発者がどんなゲームを目指したかは分からないから、自分の中の基準は必要になる。そしてその基準は「良い体験であったか(≠面白い、楽しい)」であるべきで、あの名作と同じ体験ができたかどうか…だと、それは評価を見誤る原因にもなりかねない。
…で『鳥類弁護士の事件簿』の評価だけど
「シナリオの後味が悪いこともあるけど、それを知ったうえで遊ぶなら悪くないよ」くらいに落ち着けておくことにします。糠喜びは良い体験とは思えないので、引っくり返すにしても裁判の中でやってほしかったとは思うなぁ…