「総当たりADV」に、コマンド選択は必要か?
先日、ファミコン探偵俱楽部の新作『笑み男』が発表されました。これに合わせて、うろ覚えになっているリメイク版『消えた後継者』と『うしろに立つ少女』を再プレイしました。そのとき、ある疑問が頭に浮かびました。
「このゲームに、コマンド選択って必要なんだろうか?」
「必要だとして、それはどのような意味で必要だと言えるんだろう?」
まず、両作にストーリーの分岐やゲームオーバーはほぼありません。またコマンド選択に基づく駆け引きも存在しません(回数制限だとかが無い)。そうして一本道の物語を進めていく内容なわけですが、そうなると、コマンド選択の必要性が揺らぐように思います。なぜなら、見るものが一つの物語で、そこに駆け引きもないならば、コマンド選択を廃してビジュアルノベルと同じ形にしても、体験としては変わらないように思えるからです。いわゆる総当たりを許容するコマンド選択ならば、いっそ廃してもっと物語にフォーカスする選択もあり得るのではないでしょうか。
今回はこの疑問点から、リメイク版ファミ探のコマンド選択が、ゲームプレイの中でどのような必要性を持っているのかを考えてみました。
またこの話は、より広く「総当たり系ADV」にまで範囲を広げても一定程度は当てはまる内容になると考えています。
※本記事は松永伸司さんの著書『ビデオゲームの美学』を元に考えた内容で書き進めています。ただ『ビデオゲームの美学』は難しい本であり、私自身もしっかり理解できていないため、正確な引用はできていません。これに着想を得た…程度の関係だと思ってください。
物語を楽しむだけなら、コマンドは無しでもいい?
繰り返しの話になりますが、リメイク版ファミ探は一本道の物語を進めるゲームです。分岐やバッドエンドは存在せず、ほぼ直線状の物語をプレイヤーはコマンド選択によって進めていきます。
そうして直線状の物語を進める内容ならば、その体験自体はコマンド選択がなくても成立し得ます。もちろんテキストの書き直しは必要になるでしょう。しかしそこさえクリアすれば、少なくとも物語という点ではコマンド選択の有無で変化しない体験が可能になると感じます。
ならばいっそ、コマンド選択を無くしてしまっても問題ないと言えないでしょうか?
駆け引きも分岐も持たず、総当たりを許容するコマンド選択。これは直線状の物語の進行を目的にしたゲームにおいて、どのような必要性をもって存在しているのでしょうか?
この疑問に対する私の答えは、同じくコマンド選択式のビデオゲームである『ドラゴンクエスト』を並列させて考えることで、分かりやすく解説できます。
勇者ごっこと駆け引きのコマンド選択…『ドラゴンクエスト』
ドラクエは説明する必要のない作品です。
ドラクエは主に戦闘にコマンド選択ADVと似た仕組みを用いています。ではドラクエから直線状の物語を理由にコマンド選択を廃してしまうと、一体どうなってしまうのでしょうか。物語という点だけを見れば、ドラクエもおおむね一本道です。ならば戦闘からコマンド選択を廃しても良いと言えるでしょうか。
当然、言えないでしょう。ドラクエ戦闘におけるコマンドは、それがないと味わえない何かを持つ重要なものだと誰もが感じるはずです。
その「コマンド選択がないと味わえない何か」の正体だと私が考えている点は2つあります。まずは駆け引き。そして、今回の記事ではこちらの方が重要ですが、勇者ごっこです。他にも色々ありそうですが、そこは本題ではないので掘り下げません。
コマンド選択が実現する「駆け引き」と「勇者ごっこ」
ドラクエの戦闘には、勝つ以外の選択肢が基本的にありません。
例えばスライムに負けたならセーブポイント、あるいは拠点に戻されるだけで、負けたなりの進行というのは存在しないでしょう。またそれが必須戦闘であるなら、勝つまでやり直しになります。
つまりドラクエをあくまでも物語体験として見た場合、戦闘からコマンド選択を廃し、必ず勝つ内容のビジュアルノベル形式にしても問題ない…と言ってしまうことも可能だと考えます。
しかし普通はこれを受け入れられないと思います。なぜならこの意見は、ドラクエを物語体験という一面でばかり見ているからです。ドラクエの戦闘におけるコマンド選択は、それが物語的な何かに関与していなくとも、廃してはならないものだと誰もが直感するでしょう。
ではコマンド選択を廃すると失われしまうものは、一体何なのでしょうか。
それが上でも書いた「駆け引き」と「勇者ごっこ」です。後者はもうちょっとカッコよく「勇者シミュ」と言っても良いです。
まず駆け引きの説明です…と言っても、詳しい解説は不要でしょう。
ドラクエの重要な要素は物語だけではありません。敵との戦闘があります。こちらの方が大切だと感じる方も多いでしょう。ドラクエにはHPの奪い合いに基づく駆け引きがコア体験の一部としてあり、コマンド選択を廃してしまったら、これが失われてしまいます。
例えスライムに勝っても負けても物語は変化しなかったとしても、そもそもスライムに勝てるかどうかを楽しむこと自体がドラクエの重要な内容です。そのため物語のことばかり考えて「コマンド選択を廃してビジュアルノベル形式にしても良い」とは言えません。ビジュアルノベル上の戦闘では、そこにプレイヤーの選択を通して実現する敵との駆け引きが存在し得ないからです。
これだけでもコマンド選択を廃してはいけない理由として十分ですが、更にもう一点、理由を挙げます。この記事ではこちらの方が重要です。
それはコマンド選択を通して行われる「ごっこ遊び」です。
コマンドを通し、プレイヤーは勇者になりきる
ドラクエ戦闘のコマンド選択は、駆け引きの他にもう一つ「勇者ごっこ」という重要な体験をもたらす考えます。これがファミ探のコマンド選択にも通ずる要素だと考えています。
私たちはドラクエの戦闘で「たたかう」を選ぶとき、勇者ごっこをします。もっと詳しく言うと「ドラクエ世界で勇者として行動している感覚」を得ます。この感覚こそが、ビジュアルノベル形式にするいと失われてしまうと私が考えるものです。
どういうことでしょうか。
ドラクエをプレイするとき、プレイヤーはあらゆるコマンドを通して、ドラクエ世界で自身が勇者として行動している感覚を得ます。スライムとの戦闘で「たたかう」を選ぶとき、店で装備品を買うとき、宿屋にお金を払って泊まるとき…。行く先々で私たちは、ドラクエ世界における勇者の状況をゲームから受け取り、自分自身の判断で行動を決め、ゲームはプレイヤーの判断と操作を勇者の行動としてドラクエ世界に反映させていきます。
プレイヤーはこのようなコマンド選択を通して、あたかも自分が勇者としてあの世界で冒険しているような、ごっこ遊びに近い感覚を得ている…というのが私の主張です。これはコマンド選択を廃してビジュアルノベルにしたら消えてしまうものです。なぜならノベル上にあるのは、プレイヤーの選択などとは関係なく動く勇者の姿だからです。少なくとも自分自身が勇者として世界の中で何かを選び、決定している感覚は得られないでしょう。
例えばスライムとの戦闘がビジュアルノベル形式になったとしたら、駆け引きと同時に、プレイヤー自身がスライムと戦っている感覚が失われるでしょう。テキストの上で戦う勇者の姿を読むことからは、少なくとも自分自身が勇者になってた戦う感覚は得られないからです。もちろん、勇者に感情移入したりすることはあるでしょうけれども、それは自身の選択によって戦闘を進めていく感覚とは別物です。
この「自分自身が勇者として行動している感覚」こそ、私がさっきから「勇者ごっこ」と呼んでいるものの正体です。
だいぶ遠回りしましたが、この話はそのままファミ探にも当てはまると考えています。
『消えた後継者』や『うしろに立つ少女』からコマンド選択を廃してしまうと、同時にプレイヤー自身が主人公としてゲーム世界で行動している感覚…つまりは「探偵ごっこ」の感覚が失われます。そして探偵ごっこの感覚を得ることこそがファミ探の重要な点であるとするならば、ここにコマンド選択の必要性を説明することができると考えています。
「探偵ごっこ」としてのファミコン探偵俱楽部
ファミ探におけるプレイヤーの目的はシナリオを進行させることです。このシナリオは正解のコマンドを選ぶまでは進行せず、そして分岐やゲームオーバーがありません。ならばコマンド選択を無くしてしまっても、物語を楽しむ上では問題ないように見えます。
しかし、ファミ探にはもう一つの楽しみがある。それが「探偵ごっこ」の遊びです。こう表現するとちょっと子供っぽいので「探偵シミュ」と言い換えても良いでしょう。この探偵ごっこは、何らかの探偵っぽい行動を表すシステムと、それをプレイヤーが自身の意思で自由に決定できる仕組みがなくては成立しないでしょう。
例えばファミ探には「見る」や「聞く」などのコマンドがあります。これはいずれも探偵がその場で取ることが自然に想定される行動であり、これをプレイヤーは自由に選択できます。そうして自由に選択できるコマンドを通して、ファミ探の世界で探偵として行動する、探偵ごっこをする。その遊びは、コマンド選択によって成り立っている。
ノベル形式のゲームにしてしまうと、物語には問題がなくとも、プレイヤー自身がファミ探の世界で行動している感覚は得られなくなります。ごっこ遊びが重要なコア体験の一つなのだとすれば、ファミ探から直線状の物語体験を理由にコマンド選択を廃することはできない…そう考えています。
では、そのコマンド選択は面白いのか?
本記事で言いたいことは上記までで終わりです。ここから先はおまけです。
ファミ探におけるコマンド選択の必要性は説明しました。では、ファミ探のそれは果たして面白いのでしょうか?
少なくとも現在発売されているシリーズ内2作、リメイク版『消えた後継者』と『うしろに立つ少女』は、ここに課題を残す印象を受けます。その要因はコマンド選択そのものよりも、コマンド総当たりを許容するシステムにあると感じています。
前述の通り、ファミ探のコマンド選択は回数制限などの仕組みがありません。そのため次にどうすればいいか分からなくなった際の最適解は、どうしても機械的な総当たりになります。これはゲームの敷居を下げて遊びやすくしますけれど、同時に探偵ごっことしては淡泊なプレイ時間を生むことにも繋がっています。
正解のコマンドを引くまで何度でも選びなおせるなら、迷ったら上から順に全て総当たりするのが手っ取り早い。しかしそんなプレイをするとき、探偵ごっこ的な感覚が消えます。その時のコマンド選択はごっこでもシミュでもなく、上から順にチェックしていく機械的なものです。コマンドがまるでシナリオ進行を阻む障害物のように感じられてしまいます。だからこそ私はコマンド選択の意義に疑問を持ちました。
この総当たりを許容するシステムは敷居の低さを実現すると同時に、プレイヤーに駆け引きを要求しないがゆえの淡泊なプレイ時間の発生にもつながっていると感じます。回数制限なし、かつ複数の選択肢からの正解探しというルールを守り続けるなら、この課題はついてまわるように思います。
ならば総当たりの時間を減らすため、コマンド選択を簡単にしてしまうという方法もあるでしょう。ただしその方法だと体験としては直線状の物語へのフォーカスがいっそう強まるように思います。つまりビジュアルノベルっぽくなっていく。
実際『うしろに立つ少女』は、コマンド選択で悩むことが少なくなるようデザインされています。『消えた後継者』と比べて、迷って総当たりしてしまう場面が明らかに少なくなっています。しかしこれはビジュアルノベルのような体験に近づいているようにも感じます。悪いことだとは思いませんが、探偵ごっことしてコマンド選択を捉えた場合、プラスと言い切ることも難しい方向に感じます。
難しくすれば総当たりによって探偵ごっこ感が薄れ、簡単にすれば直線的な物語体験としての色味が濃くなっていく…そんな課題を抱えているように思うのです。もちろん多くの推理ADVは長い歴史の中で、ここにいくつもの解決法を見出してきました。が、それはまた私自身が見聞を広めた時にブログで書く…と思います。
そういう意味で『笑み男』は気になっています。
ゲームの表現の幅が大きく向上した今、コマンド選択ADVはどのような形を示すのか。
期待しながら、発売を待っています。