【AIR】さらば国崎往人。AIRを「ギャグ」と「主人公の無力化とその固定」の二点で考える。

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なぜ『AIR』は古のオタクたちの心をつかんだのか?

20年以上も前に発売されたAIRは当時の、今となっては古とも呼ばれるオタクたちの支持を集め、テレビや劇場でアニメ化され、原作の移植はSwitchでも実現するほど息の長い作品であり続けています。そんな本作を、懐古が過ぎると自虐しながら今遊びなおしてみると、なるほど確かに令和の作品と比較しても異彩を放つように思えます。

いったい、AIRには何があるのでしょうか。

私は、AIRの大きな特徴は以下の2点であると思っています。

・ギャグ
・主人公の無力化とその固定

今回、私自身がいい加減AIRを卒業するためにも、上記の点から本作を考え、AIRがこれほど愛される作品へとなった理由の一端を探ります。

ギャグと、ギャグがシナリオにもたらす効果について。

AIRはギャグが面白い作品です。

しかしAIRへの賞賛において「ギャグが面白い」は既に散々言われていることですから、もう少し踏み込んでみます。

そもそも、AIRのギャグの面白さとは、つまり何の面白さなのでしょうか?

一言でギャグと言っても、その中に様々な意味を内包しています。ですから「ギャグ」をそのまま主語にすると、具体的に何が優れているのかがはっきりしづらくなります。これをもう少しだけ明確にしてみました。それが以下です。

私が思うAIRのギャグの面白さとは、つまりズレのセンスの良さです。

ここで言うズレとは、私たちが思う常識からのズレです。このズレはAIRに限らず、プロの漫才師なども多用するギャグの基本形の一つであると考えています。ボケが常識からズレて、ツッコミが「何でやねん!」とズレを修正するのです。

動画で実例を見てみます(7秒程度です)。

ごく短い動画ですが、ズレ→常識への修正→ズレで笑いが構成されているのが分かります。

笑いはこのような常識からのズレによって生み出されることがあり、作り手側はそのセンス…どの程度、どのようにズラすか。それをどのタイミングで常識へ修正するか…が試されます。このセンスが優れていれば面白いでしょうし、そうでないとスベる確率が高くなるでしょう。

AIRはこのズレのセンスが優れていると考えています。

AIRをプレイしますと、そのギャグシーンの多くはズレによって生み出されていることが分かります。

以下のスクリーンショットは主人公の有名なセリフです。

「ラーメンセットひとつ」

路銀が尽き、やむを得ず町を訪れた主人公の第一声です。これが常識からズレた素っ頓狂な発言であることは明らかです。この後も主人公は何度もズレて、それによる笑いを引き起こします。

AIRのギャグは面白い。これを更に踏み込んでいうならば、AIRはギャグにおけるズレのセンスが優れている作品です。

ただし、この主張には問題点もあります。

それはズレのセンスが優れているということの根拠が、私の印象論に留まっていることです。私はズレのセンスの良さを客観的に証明する技術と知識を持っていません。

AIRのギャグの面白さは、シナリオの面白さに直結している。

ギャグが面白いことと、シナリオが面白いことは果たしてイコールでしょうか。

ギャグが面白いことは、明確な加点要素でしょう(面白いことを客観的に証明できるかはともかく)。しかしそれが「シナリオの面白さ」という、より大きな面白さの内部にあるかは、判断が分かれるのではないでしょうか。刹那的に笑えることと物語の良さは、別物であるように思えます。

しかし私は、AIRにおいては、ギャグの面白さをそのままシナリオの面白さに含ませて良いと考えています。

なぜならば、AIRにおけるギャグの面白さは、物語の導入から本筋開始までの間を埋め、序盤のシナリオへの印象の底上げに貢献し、結果、AIRの物語体験への印象を構成する上で不可欠な要素となっていると考えるからです。

面倒くさい文章になりました。かみ砕いて解説します。

私が思うギャルゲーシナリオの課題

私は常々、ギャルゲーシナリオにはいくつかの難題があると思っています。その一つが「『話の始まり』まで、いかにして間を持たせるか」です。

ここで言う「話の始まり」とは、タイトル画面でNEW GAMEを押した直後のことではありません。物語の本筋が進行し始める地点のことです。例えるならば、名探偵コナンで言うところの殺人事件発生の地点です。

映画版の名探偵コナンでは、冒頭でいきなりコナンと死体が遭遇することはまずありません(原作、テレビアニメ版は分かりません)。

映画が始まると、まずはコナンと少年探偵団や毛利蘭がお出かけするシーンが挿入されます。加えて小五郎や阿笠ハカセなど周辺人物も登場。名探偵である「眠りの小五郎」が豪華客船の進水式に招待され、コナンや蘭はそれに同行することに…と、殺人事件の前に、物語における前提条件とでも呼べるものが提示されていきます。

この地点こそ導入部であり、今回の事件の舞台はどこであるのか、どんな人物が登場するのかなどを視聴者に説明する役目を持っています。この時点で既に映画自体は開幕していますが、話の本筋…つまり殺人事件の解決劇は進行していません。

その後にコナンと死体が遭遇という転換点が訪れます。するといよいよコナンVS殺人犯という本筋が動き出します。ここが本当の意味で物語が始まる地点です。

つまりコナン映画には、オープニングから殺人事件発生=導入から物語の本当の始まりまでに、いくらかの間があります。この間で、今回の事件の舞台や登場人物の説明などが行われます。これはコナン映画に限った話ではありません。多くの物語のテンプレートと言える構成です。

ギャルゲーのシナリオも例外ではありません。

ギャルゲーでもやはり、NEW GAMEを押した直後から本筋が進行することはありません(掴みとしてチラ見せしたり、あえていきなり進行させることもあります)。まずは主人公の紹介と状況説明、加えて周辺人物の人柄や、人物間の関係を示す導入部があります。

朝、目が覚めるシーンから始め、そこに幼馴染が起こしにくる。通学路を二人で歩いていると、ピンク髪の後輩が主人公に飛びついてきた。デレデレする主人公を見て、こめかみに青筋をたてる幼馴染…。校門前では「ごきげんよう」と笑顔で挨拶する生徒会長と合流。雑談を交わしながら廊下で別れ、教室に入る。すると何やら悪友が騒いでおり、委員長が静かにしてと怒っている。チャイムが鳴ると生徒より背が低い先生が入ってきて、金髪で瞳の青い転校生を紹介する。その転校生が主人公に「私はアナタの許嫁だ」と宣言した。

プレイヤーはこのような導入部を通し、物語がどのような世界で、どのような人物らで語られるのかを理解します。ですから、導入部は前述の通り「間」ではありますが、重要な役目を持っています。

そんな導入部ですが、ある問題も抱えています。それは「退屈になりがち」ということです。

導入部は、退屈になりがち

導入部は退屈になりがちです。導入部では話を始められないからです。ではなぜ話を始められないのか。それは導入部でいきなり話を始めてしまうと、受け手が混乱するからです。

例に出したコナン映画でいえば、コナンたちはどこに、なぜいるのか。小五郎やハカセはどうしているのか。そのほかの人物はどんな性格で、なぜそこに居合わせたのか。これらの説明を終えられない内は、事件を起こせないのです。

もしこれを省いていきなり殺人事件を起こせば、映画館の視聴者たちは混乱するでしょう。上記の点がそのまま視聴者の疑問に繋がり、物語世界に入り込めないからです。ここはどこ。そもそも死んでいる人は何者。コナンは何でこんなところにいるの…と。

だからこそ、導入部で登場人物や舞台の紹介をしている間は、事件を起こすことができません。物語の本筋を始めることができないのです。

とはいえ、コナンほど有名な作品であれば、ある程度の前提知識…コナンは探偵であるとか、小五郎や灰原は犯人じゃないだとかを視聴者は予め知っていますから、いきなり事件を起こしても混乱の度合いも少ないかもしれません。しかしこれが全くのオリジナル作品である場合、いきなり本筋を初めても視聴者はついていけません。

そのため導入部は、どうしてもキャラクターたちの日常…普段の姿を描くことになります。そこでは劇的な事件も出来事もなく、だから退屈で、平凡になってしまいがちです。しかし導入を通して作品世界を構成する人や状況、場所を提示しなければ、受け手は混乱します。

退屈させないためにも、本筋を進行させたい。しかし導入部で提示しておきたい設定は多くある。ではどうするか。シナリオライターや脚本家は、常にこのジレンマと戦い続けている…というのが私の考えです。

そしてギャルゲーは、この問題の解決が特に難しいジャンルであると考えています。

その理由は以下の二点です。

・複数のヒロインとそれぞれ恋愛関係(R18の場合は肉体関係まで)に分岐することが前提のため、導入部を短くしづらい
・物語が途中から分岐し、それぞれが独立している以上、ヒロイン個別の出来事や事件発生までが長くなる

それぞれ解説します。

複数のヒロインとそれぞれ恋愛関係(R18の場合は肉体関係まで)に分岐することが前提のため、導入部を短くしづらい

ギャルゲーの不文律の一つに、ヒロインそれぞれに個別の物語があり、ヒロインと主人公は恋愛関係に発展しなければならない…というものがあります。R18作品の場合は肉体関係までを約束しなくてはいけません。

もちろん発展させないことも可能ですが、その場合はよほど巧みなシナリオでない限り、プレイヤーの不評を買うでしょう。個別ルートや濡れ場の有無、多い少ないは作品の評価に直結する点です。この選択は容易には取れないでしょう。

そしてギャルゲーのヒロインのような物語上の重要人物は、それだけ導入で十分に印象付ける必要があると考えています。

何せギャルゲーのヒロインは、コナンで言うところの蘭、進撃の巨人で言うところのミカサのような、いずれは主人公と強い関係で結ばれる存在です。更にR18ならばセックスにまで発展する重要人物を、モブキャラのように紹介することはできないでしょう。主人公にとってもプレイヤーにとっても、魅力的に映るよう描かなくてはいけません。深い関係に発展する人物として、上っ面の可愛さだけでなく、その人格や主人公以外の人物との関係などまで含めて、エピソードを交えながら示す必要があります。一作品に複数のヒロインがいるならば、その数だけヒロインの人柄を提示する導入部が肥大化するでしょう。そしてギャルゲーには、そんなヒロインが3人くらいは登場するのが当たり前です。

これこそが、ギャルゲーの導入部を短くしづらいと私が考える原因です。

前述の通り、導入部では事件を起こせません。そのため退屈になりがちですが、かといっていい加減にもできません。しかもギャルゲーには導入で入念な紹介をせなばならない人物が複数おり、結果、導入部はそれだけ長くなります。そこを面白く読ませる技術が開発スタッフに求められます。しかし、長い導入部を面白く読ませるのは難しいでしょう。

そして『AIR』はこの難題を、ギャグの面白さで解決している…というのが、私の考えです。

物語が途中から分岐し、それぞれが独立している以上、ヒロイン個別の出来事や事件発生までが長くなる

これもまたギャルゲーの不文律として、物語が途中からヒロイン個別の物語に分岐するというものがあります。

れが元々難しい導入部から本筋への繋ぎを、ますます難しくしていると考えています。なぜなら、物語が途中からヒロインごと全く異なる物語に分岐するとなると、その分岐点までは本筋を進行させづらいからです。

というのも、導入部の退屈を受け手に感じさせないテクニックの一つに、さっさと本筋を始めてしまう…というものがあります。導入部はハイテンポに進行させ、早い段階でヴィランを登場させるなり殺人事件を起こすなりして、素早く本筋に乗せてしまうのです。これはいわゆる「掴み」のもっともポピュラーな方法と言っていいでしょう。

しかし、ギャルゲーにはこれが難しいです。なぜなら、ギャルゲーにとっての本筋とはつまりヒロインごとの個別ルートに他ならず、そして個別ルートは分岐点の前に中途半端に進行させることができないからです。

例えば導入部で退屈させないために、あるヒロインにまつわる重大な出来事を発生させ、本筋を進行させたとしましょう。これでプレイヤーの退屈は一時的に緩和できるかもしれません。しかし各個別ルートへの分岐点に差し掛かったとき、問題が生じます。その問題とは、その出来事が発生しなかったヒロインのルートをプレイヤーが選択した場合、物語上に不自然が生じてしまうことです。

もう少し具体的に例え話をしますと、ヒロインAのルートでは殺人事件が発生し、ヒロインBのルートでは発生しない場合、分岐点=本筋開始前に殺人事件を起こすことはできません。もしヒロインBルートをプレイヤーが選択した場合、殺人事件が未解決のまま残ってしまうからです。殺人事件を放置したままヒロインBと結ばれて幸せになってしまうのは、明らかに不自然です。

掴みとして殺人事件のシーンを冒頭で明かすことも、同じような理由でできません。ヒロインBのルートを選んだ場合、掴みと内容に大きな矛盾が生じるためです。

上記の理由によりギャルゲーは、ヒロイン個別の重要な出来事を分岐点前に発生させることができないのです。

もちろん、これ以外にも掴みの手法はいくらでも存在します。しかしいずれにせよ、ヒロインのパーソナルに迫る本筋を分岐点前に進行させすぎるわけにはいかず、見せ方が難しいだろうと思います。

ギャルゲーは主人公と深い関係で結ばれる候補が複数おり、そのため導入部が肥大化しがちである。更に、退屈を緩和させるために本筋進行を早めることも難しい。これが、私がギャルゲーシナリオにおいて、導入と本筋のジレンマの解決が難題であると感じる理由です

無論、ギャルゲーとてこれに手をこまねているわけではありません。様々な工夫、手法、構成で解決し、名作をいくつも紡いできました。そして『AIR』がとったのは、ギャグの面白さによる解決である…というのが私の考えです。

ズレまくる国崎往人

『AIR』の主人公である国崎往人は、ジャンル屈指のボケ主人公です。

彼ほどギャグをやる主人公は、令和の今業界を見渡しても多くないのではないでしょうか。そして彼のギャグこそが、『AIR』における導入部の退屈をかき消すものだと考えています。

『AIR』は私が上述したギャルゲーシナリオにおける導入と本筋の難題に、真正面からぶつかっている作品です。個別ルートでは各ヒロインのパーソナルに深く関わるシナリオが展開されます。だからこそ分岐点前にそれを中途半端に示すことができず、かといって恋愛対象になる彼女らの印象付けをいい加減に済ますこともできない。

ではどうするか。『AIR』が示した答えは“笑い”です。受け手を笑わせることで、退屈を感じさせずに分岐点まで運ぼうとしているのです(空にいる少女への言及など、本筋チラ見せもいくらか使われています)。

だからこそ、私は『AIR』のギャグはシナリオの面白さに含めて評価するべきだと考えています。本作のギャグは刹那的に笑えるだけでなく、シナリオへの印象そのものを変える働きをしていると考えるからです。

主人公を無力化し、しかも戻さない『AIR』

次です。

私が『AIR』のシナリオで特に驚いた点は、主人公を無力化しそのままにすることです。

AIR編終盤、主人公はカラスになった体のまま人であった頃の記憶を思い出します。しかしカラスの小さい体ではそれを受け入れきれず、消滅していきます。このあと、主人公はそれまで以上に物語に関わることのできない、無力な存在へと変わります。しかも、あろうことか主人公は以降、力を取り戻すことは一切ありません(カラスとしての体はずっと残っていますが)。

まずこのことの特異性を語ることから始め、更に、それがシナリオ上でどのようなことを達成しているのかを考えます。

ギャルゲーは主人公を無力化しづらい物語形態

通常、ギャルゲーは主人公を無力化する表現の採用が難しいジャンルだと考えています。なぜならギャルゲーの主人公は、プレイヤーが物語を体験するための言わば接続装置であるからです(ここでいう無力化とは、物語世界の現在へ干渉不可能になることを指しています)。

私たちはギャルゲーの作品世界に、主人公を通して接続します。ゲームを起動すると主人公の見ている視界が広がり、テキストボックスには主人公の独白が可視化され、主人公の聞くヒロインの声がスピーカーから再生されます。プレイヤーはこれにより、あたかも主人公と自分が同化したような体験をすることになります。それはそのままヒロインとの恋愛、セックスを疑似体験することにも繋がります。

では、主人公を無力化し物語へ干渉できない存在にしてしまうと、どうなるでしょうか。

そのとき、私たちは傍観する者となってしまうでしょう。なぜなら、無力化により主人公が傍観者へと変貌してしまうからです。つまり傍観を体験することになります。この状態では回想シーンなどを除き主人公はヒロインと恋愛ができず、そのためプレイヤーもそれを疑似体験することができなくなります。

もちろん、物語の表現においてこのような手法を使ってはいけない…という話ではありません。しかしギャルゲーにおいては令和になった今でも、主人公を接続装置としてプレイヤーと同化させることで、物語上の主人公の体験をそのままプレイヤーに体験させる…という表現が受け継がれています。このジャンルが恋愛やセックスの疑似体験を重視していた時代の名残であるのかもしれません。

その疑似体験の内容がどのようなものであったかがギャルゲーの評価を決める大きな基準になることは、やはり今も昔も変わりません。そしてギャルゲーの主人公を無力化するということは、体験内容を「傍観するしかない無力感」という、ネガティブなものへと変えてしまう恐れのある表現方法です。

そして『AIR』は主人公をカラスの姿にしたうえで、更に記憶までほぼ消滅させ、無力化してしまうのです。

とはいえ、このような主人公の無力化自体は、実はそれほど珍しい表現ではありません。特にヒーロー映画などでは頻繁に使われる、お約束と言ってもいい展開でしょう。

主人公の無力化は、同化している受け手にも強い無力感をもたらします。だからこそ、ポジティブへ向かう際には強力なバネになる。ヒーロー映画では、このバネの力を利用するシーンをよく見かけます。ヴィランやライバルに叩きのめされ無力感を味わった主人公は、しかし再び立ち上がります。その姿は倒れる前よりも遥かに力強く映るでしょう。

ではAIRの主人公、国崎 往人はどうだったでしょうか。
ここにこそ、本作の特異性があると思っています。

国崎 往人は、立ち上がらないのです。
カラスの中から消滅し無力になった彼は、そのまま無力であり続けます。プレイヤーはこの後エンディングまで、無力な傍観者…物語世界の現在へと干渉できない存在であることを体験します。これはとりわけギャルゲーというジャンルにおいて、極めて特異な表現方法であると考えています。その理由は上記の通りです。

主人公の無力化とその固定によって、AIRは何を表現したのか

主人公を無力化し固定することそれ自体が特異であると私は考えています。

しかし、言ってしまえばそれは特異なだけです。ではその先、特異性によってAIRは何を表現しようとしたのでしょうか。

それはいくつか挙げられるでしょうが、私が特に重要であると考えているのは、以下の点です。

・晴子へとバトンを渡し、母と子の物語へと繋いだ

解説します。

印象的な晴子の再登場シーン

プレイヤーにとっても、また観鈴にとっても印象的であっただろうと私が考えているシーンが、AIR編での晴子の再登場シーンです。

消滅する刹那、人の姿を取り戻した主人公との約束を果たすべく、一人で生きていくことを誓う観鈴。自販機でジュースを買うことすらたどたどしい彼女に手を差し伸べたのは、再び登場した晴子でした。

この時既に主人公は消滅=無力化されており、そのため彼という接続装置を通すことでしか作品世界にアクセスできないプレイヤーもまた無力です。観鈴は一人、神奈の夢を見る苦しみに苛まれているのに。

そんな観鈴の元に晴子は、まるで主人公に変わって立ち上がるヒーローのごとく姿を現します。

観鈴を笑わせる。その役割のバトンが主人公から晴子に渡った瞬間であり、そうしてバトンを失ったプレイヤーは無力な存在として、ただ彼女たちの物語を傍観する立場であることしかできません。

観鈴の母になろうとする晴子

以降、細かい物語展開は割愛します。

再登場後の晴子は、観鈴の母になろうと奮闘します。そこから、AIRが主人公の無力化によって表現したものが、晴子が自分の力だけ…つまり主人公、ひいてはプレイヤーの干渉を一切得られない状態で、戦う姿ではないかと考えています。

このときAIRは主人公とヒロインの物語をその特異性によって母と子への物語へと明確に転換し、神奈と観鈴を何者にも干渉されない母の愛によって救い、エンディングとしたとは考えられないでしょうか。他のギャルゲーにはそう見られない物語展開でありの特異性をAIRは20年以上前に描きました。これが古のオタクたちの胸を打つ理由の一端ではないかと予想しています。

終わりに

AIRが優れた作品であるか否かの価値判断は、この記事ではしません。私の手には余るからです。また物語表現の可能性は膨大でありますから、母と子の物語を、主人公の無力化とその固定という特異性を用いず描くことも可能であったでしょう。そのため特筆すべきは展開そのものよりも、特異性による強い印象付けであると考えていることを注釈しておきます。

以上で、私にとってのAIRをひとまず終わりにします。さらば、国崎 往人。

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