誰もが知っている「常識」なんて、本当に存在するのか?
先日、カードゲーマーへの恋愛指南を綴ったnoteがバズったようです。

このnote、題名には「カードゲーマー」とありますが、内容は広く異性愛男性…とりわけ女性とのコミュニケーション経験が少ない異性愛男性が、女性にアプローチする際に気を付けるべきポイントをまとめたものです。これらは執筆者が自身の人生経験の中で積み上げたものだと書かれています。
このnoteは大バズりし、Xでのポスト(消してしまったようですが)は万バズ、noteのスキは13000を越えています。すご。そして内容には多くの賞賛の声が集まっているようです。「よく言語化してくれた」「文才がある」「この世の真理だ」など、多くの読者からの筆者を褒め称える言葉で溢れています。
しかし、私はこのnoteにキケンを感じています。
いや、このnote自体と言うより、このnoteが全面的な賞賛の言葉でもって受け入れられている現状にキケンを感じています。私はこのnoteを「よく書かれた面白&お役立ちnote」みたいな位置に落ち着かせるのは、とてもキケンだと思います。
とはいえ、私はあのnote自体は、ところどころ主張がブレてしまっている1ところもあるけれど、大切なことの言語化に取り組んだ意義あるものだと思っています。だから頭から否定するようなつもりは全然ありません。私の考えをもっと具体的に言うと、あのnoteは良いことがたくさん書いてあるけれど、同時にキケンな前提を持ったうえで書かれていて、そのことに筆者も読者も気づいていないのではないか、と思っています。
私はふだん、素人(私もそうですが)が書いたnoteにツッコミを入れたり、問題点を指摘したりするようなことはしません。たいていは広く読まれることもなく、すぐにネットの海にぶくぶくと沈んでしまうものだからです。
しかしこのnoteはそうではない。このnoteはバズり、しかも「真理」だとか「正しいこと」だとまで言われています。そして私はコレを目の当たりにしてしまった。そしてその光景は、キケンなことが書いてあるnoteが、その危険性を認識されないまま賞賛されているように見える。これはちっとヤバいのではないか。
そう思って今回、私が感じたこのnoteの危険性を自分の言葉で残す必要がある。その意義があると感じ、こんな記事を書くことを決めました。
ただし、この「危険性」というのは、あくまでも私がそうだと感じている以上の事は何もありません。そして私は何か名の有る学者だとか、そういうもんでは全くありません。だから私がこれから主張するキケンが本当にそうなのかどうかの最終的な判断は、これを読んでくれるアナタに託します。というか託すしかない。もちろん私も最大限の注意のうえで書きますが、それでも誤りは避けられないでしょうから。
ではそんな主張をしようという私が何者なのか、はじめに簡単に明かしておこうと思います。このブログを以前から読んでくれている方、SNSでフォローしてくれている方には不要な情報でしょうが、なにぶん小さいブログですから、大半の方は「おまえ誰だよ」状態だと思います。
まず私はカードゲーマーではありません。しかし異性愛男性であり、かつ恋愛未経験です。それどころか、プライベートの話ができる女性の知り合いは1人としてできたことがありません。だから「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」の対象範囲であると自分で思っています。あのnoteは一応カードゲーマーに向けて書かれていますが、その内容は世間一般での「常識」であると書かれてもいます。そして私は当然ですが世間一般の範疇ですから、あのnoteによってその「常識」の有無を問われる存在です。
年齢はヒミツです。そこまで若くはありません。学校はとっくに卒業しています。
カードゲーマーではないと言いましたが、実は昔は遊んでいました。主に遊戯王とデュエルマスターズ。特に遊戯王にはすごく夢中になった時期もありました。でも大会とかに出たことはないので全然強くありませんけどね。私がいちばん熱心にやっていた頃は「サイバードラゴン」とか「ガジェット」とかが流行った時期でした。デュエマは水文明のカードを使っていました。特に種族「リヴァイアサン」のダイナミックなカードが好きで「レジェンダリーバイロン」や「キングオリオン」を使っていました。「クリスタルツヴァイランサー」や「マーキュリーギガブリザード」辺りで記憶が途絶えているので、その頃にやめたんだと思います。分かる人にはせっかくヒミツにした年齢がバレたかもしれません。
こんな人間が書く記事ですから、権威性は何もありません。素人の戯言に見える方も多いと思います。特に女性との繋がりをほとんど持ったことが無いのは、この記事を書く上では問題だと思う方も多いでしょう。そんなヤツに何が言えるんだよ…と思うことでしょう。まぁその程度のもんだと思って読んでもらいたいと思います。ただし、内容はマジメに書きます。
自己紹介はここまで。

さて私はこの記事で「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」のキケンを指摘すると述べました。ではそのキケンとは何なのか…それを先に、大まかにですが示しておきたいと思います。
ざっと言うと、以下の3点がそうです。
1.「常識」という言葉を簡単に使いすぎていて、その結果、人を侮辱する内容になっていること
2.「守りたい」と言っているはずの女性に「美しくあれ」という圧力をかけて、これによって加害すらし得る内容であること
3.上記2点の問題点が認識されないまま、賞賛されていること
この通りです。ただし繰り返しますが、このキケンはあくまでも私がそうだと認識しているだけです。「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」にこのようなキケンが実際にあると言えるのかは、最終的にはこれを読む人が判断するしかありません。私の恣意的な解釈ではないかと反論することももちろん可能です。
なお本記事では「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」の理論的な誤りを指摘することはしません。あのnoteはロジックに誤りというか、ブレがあると思っています。中には重大なだと思うミスもありますが、そういうものの指摘は本記事のねらいではありません。
そんな本記事が目的にするのは、書かれていることの論理的なミスではなく、もっと深い部分…言うなれば、あのnoteを書く上で前提とされている事柄に関する話です。とはいっても、流れで論理的なミスに触れることもあるとは思いますけれども。
…とまぁ、ここまでちょっと怖そうなことも書きましたが、あんまり怖い人だと思われてもイヤなので改めて中和しておきますと、あのnoteは大切なことも書いてあると思います。本当に。ただ私はあのnoteを「良いことメッチャ書いてある名文」ではなく「言いすぎだけど、大事なこともしっかり書いてあるよね」くらいのものへと位置付けしなおしたい。
もちろん、あれだけバズったnoteをこんな小さなブログでどれだけ批判したところで、あまり意味はありません。それでも私は書きたいと思います。
では始めましょう。
「常識」って言葉をそんなに簡単に使っていいのか?
さてまずは上で言った「『常識』という言葉を簡単に使いすぎていて、その結果、人を侮辱する内容になっていること」についてです。
「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」は「常識」という言葉をあまりにも簡単に使っています。ある事柄を「常識」だということは、それを知らない者を「常識を持っていない異端者だ」と侮蔑する意味を伴うことがあります。しかし常識を持たないことは、必ずしもその人の落ち度とは言えません。常識はその人が育ってきた環境、生来の興味関心の傾向などによって大きく変化し得るものです。常識のこのような性質は「常識を持っていないこと」は決してその人の不勉強や怠惰が原因であるとは言えないことを示しています。であるのに「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」は、常識を持っていないことをあたかも本人の落ち度であるかのように言い、その人を嘲るような言葉づかいで書かれています。私はここにキケンを感じています。
以下、なぜこんなことが言えるのか…私の思うことを順序だてて解説します。
「常識」は知識の一部である
さて上の文章で散々「常識」と言いましたが、皆さんはそもそも常識ってなんだと思いますか?
いきなり言われても~って感じだと思います。本記事では常識の持つある性質を前提にして話を進めたい。それは「常識は知識2の一部である」という性質です。他にも常識の性質は色々あると思いますが、本記事で重要なのはこれだけです。
例えば「日本の首都は東京だ」とか「ミッキーマウスといえば、あの黒いネズミのキャラだ」とか、このような常識はいずれも知識です。

ただ中には知識の一部とは言えなさそうな常識もあります。例えば「先輩に敬語を使うこと」という常識はどうでしょうか。これは「先輩に敬語を使う」という行為を指して常識だと言っています。行為は知識の一部とは言えません。
しかしこういう常識も、言い方ひとつで知識の一部だと突っ張ることができると思います。だって「先輩に敬語を使う」ことができるのは、そもそも「先輩には敬語を使わないと」という知識があるってこそできるからです。これを踏まえて具体的に言うと「先輩には敬語を使わないと、という知識を持っていて、かつそれを実行すること」まで含めて常識だと言われるのかもしれません。行為の常識であっても、そこでは知識が前提になっています。
とまぁ難しい掘り下げはこの辺にして、本記事では「常識は知識の一部である」ということを前提にして話を進めたいと思います。これを本当に掘り下げるのは素人には無理です。
さて次は、常識と知識の違いについて考えてみます。
常識は「知っていて当然」で「知らないとヤバい」
ここまでで常識は知識の一部であることを確認しました。ではこれを踏まえて「常識の知識」と「常識でない知識」の違いって、なんだと思いますか?
本記事で特にピックアップしたい二つの違いは、以下の2点です。
1.常識は「知っていて当然」とされる。常識でない知識はそうでない。
2.常識は「知らないとヤバい」とされる。常識でない知識はそうでない。
もちろんこれが全てではありませんが、本記事で重要なのはこれだけです。この2点は多くの人に納得してもらえると思います。
常識はふつう「知っていて当然」とされます。だから常識は知っていても褒められたりしません。例えば私が「日本の首都は東京です!」と言ったところで「そんなことを知っているなんてスゴいね!」とはならないでしょう。「知ってて当然でしょ」となるはずです。そして常識でない知識はそうとはされません。
これは裏返すと「知らないとヤバい」になります。例えば私が「日本の首都って…なに?」と言ったら「それ知らないのヤバすぎ…」となるでしょう。常識を知らなければ、知っていて当然のことを知らないってことになるので、ヤバいわけです。
このような「知っていて当然とされ、知らないとヤバいとされる」という常識の性質を「当然視性」とでも名付けておきましょう。名付けておいてあんまり使わないかもしれませんけどね。
常識は当然視性を持っているので、時に侮辱語として使われれることもあります。
皆さんにも「こんなの常識ですよ」と言われてイラッと来たり、あるいは言ってしまった経験がああると思います。これには常識の当然視性が深く関わっていると言えるでしょう。
常識は知っていて当然です。また常識は知識の一部でもありました。つまり常識を知らない人は「持っていて当然の知識を持っていない人」と見なせると思います。そして人は知識を持っていないことを理由に侮辱したりされたりします。一般に知識を持っている人と持っていない人とでは、後者が劣っているとされる。だから、ある常識を持っていない人に対して「○○は常識ですよ」と言うことは「あなたは知っていて当然の知識を持っていない劣った人ですね」という意味を言外に含むことがある。こうして説明するとややこしいですが、誰でも「常識でしょ」と言われたときに、こういうことを感じて侮辱されてるように思った経験があると思います。
常識はその性質により、それを知らないものを無知や不勉強の意味で侮辱する意味を持ってしまうことがあります。
しかしこの当然視性は、誰に対しても発揮されるわけではありません。
例えばまだ小さい子どもが日本の首都を知らなかったとしても、ヤバいとは思わないはずです。常識の中には、ごく限られた範囲だけ当然視性を発揮するものもあります。例えば私は金属を加工する仕事をしているんですが、この業界では「金属を切断すると、下側にバリが出る」という常識があります。業界内でこれを知らないのはヤバい。しかし業界外には全然知らない人もいるでしょう。「バリ」という言葉の意味すら分からない人も多いと思います。それをヤバいとは全く思いません。
つまり、私は上で常識は当然視性を持つと宣言しましたが、実は持たない場合もある。というか、まず常識とされる知識が頭の中にあり、しかしそれが相手にとってもそうであるかは、その相手によって変わるわけです。私たちは「日本の首都は東京だ」という常識を、大人を相手にするときは当然視し、子どもや外国人を相手にする場合は、自らにとっては当然であっても、相手にとってはそうでない…という判断を下す。
ではその判断は、どのようにして決まるのでしょうか?

その常識が相手にとってもそうであるかは、何となく判断される。そしてしばしば間違う。
ある知識が相手にとって常識であるか否かは、どのように判断されるのか。
私はこれを「何となく」だと思っています。といっても、風の吹くまま気の向くままに判断するわけではありません。
私たちは誰かとコミュニケーションを取るとき、その人の風貌やパーソナリティなど、その人の情報をもとに、ステレオタイプなんかも活用しながらどんな人物なのかを判断していくと思います。この判断に合わせて、どんな知識を常識として持っているかも判断する…と思います。細かいプロセスは私も分かりませんが、感覚的に同意してもらえるはず。ただこのプロセスは大抵の場合、無意識か、あるいは速い思考でされるでしょう。いちいち「この人は男性で、年齢は40代くらいかな。車が好きだって言ってたっけ。そんで仕事はIT関係だから、えーと…」とか考えたりはしないと思います。だから振り返ってみると「何となく」と言えると思います。もちろんハッキリと判断できない場合もありますけども。
ただこの判断は何となくでされますから、間違ってしまうこともあります。
例えば私が、ポケモンが好きな人と話をするとします。私は相手のポケモン好きという情報から、きっと色んなポケモンを知っているだろうと判断し「私はダグトリオが好きなんですよね」と言ったとする。ところが相手は「すいません、ダグトリオって何ですか?」と答えます。このとき私は「えっ、あぁすいません。ダグトリオっていうポケモンがいて…」と返す。
さてこの一連の流れで、私は常識に関するある間違いをしています。まぁ説明するまでもないでしょう。それは「相手にとってダグトリオに関する知識が常識である」という判断をしたことです。

私は相手の「ポケモン好き」というパーソナリティから、色んなポケモンを知っているだろうと判断しました。そこからダグトリオに関する知識は相手にとって常識だろうと判断した。だからこそダグトリオに関する説明をしないまま、いきなり「ダグトリオが好きなんですよね」と言いました。もし相手がポケモン好きではなかったら、いきなりダグトリオの話はしません。ピカチュウとかならともかく、ダグトリオはポケモンがある程度は好きでないと知らないと思うからです。
さてここで疑問が浮かびます。ではこのポケモン好きでありながらダグトリオを知らなかった人は「持っていて当然の知識を持っていない劣った人」なのでしょうか。
常識を持っていない人は、持っていて当然のものを持っていない劣った人なのか?
ポケモン好きでありながらダグトリオを知らない人は、当然の知識を持っていない劣った人なのか。まぁ趣味に関する話で「劣った人」というのはちょっと当たりが強いので「無知な人」とか「物を知らない人」とか、侮辱的な意味をもつ別の言葉にしてもいいでしょう。
私はそうは思いません。
私にとってダグトリオは有名なポケモンです。しかし、だからといってポケモン好きなら知っていて当然、知らないとヤバいとは全然思いません。だって一言でポケモン好きといっても、その人がどのような物語でもってポケモンを好きになったのかは全然わからないからです。
もしかしたら例で出した人は、つい最近はじめてポケモンを遊び、それにスゴくハマっているからポケモン好きと言ったのかもしれません。いくらポケモン好きでも、好きになって日が浅いなら知らないポケモンがいるのは全く不思議な話ではない。あるいはゲームのポケモンは遊ばず、グッズを集めている人なのかもしれない。ダグトリオは昔からいるポケモンですが、グッズがたくさん出るほど大人気のポケモンではないので、やっぱり知らなくても不思議ではない。あるいは特定の好きなポケモンが何種類かいて、それだけにひたすら愛を注ぐひとなのかもしれない。そこにダグトリオが含まれないなら、知らない方が当然ですらあります。
ポケモン好きも十人十色です。その人がどのような経緯でポケモンを好きになったのかで、持っている知識なんて全く異なる。そこに持っていて当然、持っていないとヤバい知識なんてありません。ならば「持っていないとヤバい知識を持っていない劣った人」なんて存在するはずがない。
だからもし私が上記の例で「えぇっ、ダグトリオを知らないんですか。常識レベルでは」と言ったとしたら、これは問題です。その人がどのような経緯でポケモン好きだと言ったのかを全く考えずに「ダグトリオに関する知識を持っているのは当然だ」と判断しているからです。相手のことをよく考えないまま「持っていて当然の知識を持っていない人」と見なしたことになる。そこには私の意図するしないに関わらず、相手に対する侮蔑的な意味が含まれ得ます。
そしてポケモン好きでありながらダグトリオを知らないことは、無知でも不勉強でもありません。単にどのようなルートでポケモンを好きになったのかの違いでしかない。そこに劣っているとかいないとか言えるものは何もありません。

そもそもの話、私がダグトリオを知っているのは、別にポケモンのことを頑張って勉強したからとかではない。単に私は昔のポケモンを子どもの頃に遊んでいて、ダグトリオはその中に登場するポケモンだったので覚えているだけです。私はそういうルートを通ったから知っている。仮に私がポケモンのことを勉強したり調べたりした結果ダグトリオを知ったのだとしても、相手を「常識を知らないヤバい人」という意味で劣った人とみなすことはできません。なぜなら勉強したり調べたりした時点で、それは既に常識ではない。その知識は当然視性を持たない。ならば相手を「持っていて当然の知識を持っていない劣った人」とすることはできません。
ある常識が相手にとってもそうであるかは、どのようなルートを通ってきたかで大きく異なる。そしてどのルートにも優劣はつけられない。ならば私が通ったルートで得た常識を、違うルートを通った相手が持っていなかったとして、それは単に優劣なきルート選択の違いが表出しただけです。なのに相手を「持っていて当然の知識を持っていない人」とみなすのは、本来そこに優劣などないのに相手を劣った人と見なす。そのような意味を含む。
私はこのような、ルートの異なりを考慮することなく、自分にとっての常識を相手に取ってもそうであると一方的に決めつけ、そのうえで相手がその常識を持っていなかった場合に「持っていて当然の知識を持っていない人」として侮辱することを、間違った行為だと思っています。
ちなみに仕事に関する常識などは、このようなルートによる違いをなくすため、その業界の常識を教えるための研修や教育の機会が必ず設けられます。業界の常識を知らない社員がいたら業務に支障が出てしまう可能性がありますからね。
ずいぶん長くなりました。しかしここまで書けば、私が「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」に対して何を言いたいかはほとんど分かってもらえるのではと思います。
「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」がいう常識は、本当にそうなのか?
「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」では、以下のように書かれています。
デッキを組むためには大前提としてカードが必要であるように、女性プレーヤーと関わるためにはクリアしておかなければならない前提条件というものがあります。
「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」/https://note.com/shakapachikawa/n/n19712bb95dc0 より
(中略)
しかし、世間一般で言われるこの「前提条件」というのは「常識」の範囲内として扱われてしまい、こと細やかに説明した文章というのは少ないように思えます。
一方、カードゲーマーはこの「常識」に触れる機会が少なかったため、女性にアプローチできるのは限られた男性、いわゆる「※イケメンに限る」のような考え方や、逆に一ミリも脈がないのに「〇〇ちゃんは自分に惚れている!」といった偏った思考を持ってしまいがちです。
この「前提条件」をクリアするというのは本noteにおいても非常に重要なファクターであるため、項目ごとに分け詳しく解説していきます。
noteでは、文中で解説するものはいずれも「常識」だと書かれています。女性プレイヤーと関わる上ではクリアしなくてはならない前提条件があり、前提条件は常識の範囲内として扱われる。つまり少なくともnote内で解説される前提条件は常識の範囲内であり、だから「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」は常識を解説する内容である、と読めます。
つまりこのnoteは「持っていて当然の知識を持っていない人」に対して、持っていて当然の知識を教えるためのものだとも言えるでしょう。しかし私は思うのですが、果たしてこのnoteで書かれていることは、そのいずれもが「持っていて当然の知識」なのでしょうか?
もちろん私も「毎日お風呂に入る」や「歯を磨く」は常識だと思っています。ただそれすらも確証は持てない。なぜなら上で散々述べた通り、どのような知識を常識として身に着けるかは、その人がどのようなルートを通ってきたかで全く異なり得るからです。
特に生活に関する知識は、家庭環境の影響を強く受けながら身に着けられていくと思います。そして家庭環境というのは、当たり前ですが家庭によって全く異なる。私の親は、note内で言われている「お風呂に入ること」や「歯を磨くこと」を、毎日やるようにと教えてくれる人でした。私がこの知識を常識として持っているのは、そうして親が教えてくれたからです。そしてそうじゃない人もいる。家庭環境や個々のパーソナリティ、付き合う人間など…様々なものによって変わる。その人が自分自身にどれだけ関心を持つかも重要な点だと思います。内面なんてこれ以上に多様なものに影響されるでしょう。だからその知識が「持っていて当然の知識」とまで言えるかどうかについては、私は慎重になってしまうし、なるべきだとも思う。
だからといって「常識なんて一切存在しないんだ!」と言いたいわけではありません。趣味の話であるダグトリオと長い歴史のなかで何度もなぞられている「お風呂に入る」という生活に関する知識は違う。多数によって実行され続けている生活様式や考え方みたいなものは間違いなくあるし、そこから外れた人を異端者と見てしまう気持ちは、私自身にも全く同じものがあります。
しかし、その多数によって実行され続けている生活様式に則っていない者、そうでない考え方をする者を、「持っていて当然の知識を持っていない人」として良いのでしょうか?

上で述べた通りある知識を常識とし、それを相手にとってもそうであるとしたならば、もし相手がその常識を持っていなかった場合「持っていて当然の知識を持っていないヤバい人」と見なすことになる。そしてそこには侮辱の意味が含まれる。
現に「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」内にも、それに対する反応にも、書かれていることが常識として身についていない人に対する「これやってない人たちはヤバいよ」という侮辱の雰囲気を感じるのは、私だけでしょうか。しかしそれはルートの異なりを考えずに相手を劣った人と見なす行為ではないでしょうか。
もちろんこれは突撃によって「被害」を受ける女性たちを軽視するわけではありません。イヤだなと感じる人からアプローチを受けたときにはキッパリと断る権利がありますし、それを無視してアプローチされ続けたり、同様の事案が繰り返されることによって安心してカードゲームを楽しむことができないと感じるならば、それは被害とまで言っていいと思います。そのような女性たちを守ろうという意識のもとで書かれたあのnoteは、その意味では素晴らしい試みであるのかもしれない。
ですがアプローチする男性側に知識を啓蒙するうえで、その男性らを「持っていて当然の知識を持っていないヤバい人」と見なされる書き方をし、侮辱の意味を言外にも言内にも含む表現をすることは、間違っている。それはルートの異なりを無視して相手を劣った人と見なす行為だからです。私が指摘したいのはそこです。
「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」は女性の受ける被害を減らし、加害者になる男性を減らすと言います。しかしその足で当の男性らを踏みつけてやいないでしょうか。それを見逃して賞賛されているならば、その現状こそが何よりもヤバいと思います。
女性に「女はキレイで当然」と重圧をかけることの有害さ
さてここからは2点目「『守りたい』と言っているはずの女性に、強い圧力をかけて、むしろ加害すらし得る内容であること」についてです。
まだあるの!?と言う感じでしょうか。あります。
「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」では、ほぼ一貫して女性が男性をジャッジする側として書かれています。しかしそもそもの話、その女性→男性の評価の先に、何よりもまず男性→女性の評価があります。こと男性がアプローチをして、女性はそれを受ける側と固定した場合、女性が男性をジャッジするその前に、そもそもその女性をジャッジする側に立たせるか否かを男性はジャッジしています。そして当然ですが、このときジャッジする側として認められなかった女性も、認められた女性と全く変わらない女性です。であるのにあのnoteは認められなかった女性はまるで女性ではないかのように扱って侮辱しているように見える。これは「アプローチされるものとして認められなかった女性は、女性とは扱われない」という形で、女性側に重圧をかけ、その意味で有害であると思っています。
以下、かみ砕いて解説します。
女性にアプローチする男性は、女性を裁いている。
「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」は、一貫して女性は男性をジャッジする側として扱われています。しかしそもそもの話、アプローチをする男性は、どの女性にアプローチをするかをジャッジしています。
当たり前ですが、いかに非モテ男性とは言え見かけた全ての女性に声をかけるわけではないでしょう。「この人いいな」という人を選別し、その人に対してだけアプローチをするはずです。つまり男性は複数いる女性の中から特定の誰かを選んだ時点で、女性を何らかの基準でジャッジしています。女性に常識云々で評価されるその前に、まず男性から女性への評価があるわけです。その評価基準を満たさないと、そもそもアプローチすらされません。
ここで重要なのは、男性のアプローチ基準を満たさなかった女性もまた、満たした女性と全く変わらない女性であることです。なお「全く変わらない」というのは、パーソナリティとかそういう部分においてではなく、誰とも変わらず尊重されるべき存在である…という意味で言っています。満たした女性は尊重されるべきで、満たさなかった女性はそうでないなんてことはないはずです。
にも関わらず、あのnoteは男性の評価基準を満たした女性だけを女性と見なすような書きぶりに見えます。女性が、女性が、と何度も書かれていますが、その「女性が」は、アプローチする男性が恣意的な基準によって判定したほんの一部の女性でしかなく、決して女性一般ではありません。
ではあのnoteにおいて、基準を満たさなかった女性はどのように扱われるでしょうか。
ここは私があのnoteを読んでいて、もっとも恐ろしさを感じた部分です。引用しましょう。
ちなみに顔面に関しては基本的に一律で「下の中」だと捉えてください。
【完全攻略】女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル【基礎編】/ https://note.com/shakapachikawa/n/n19712bb95dc0 より
なぜなら私が見てきた彼女のいないカードゲーマーは基本平均して下の中だからです。そして、このnoteをここまで読み進めているような人は下の中を越えることはないからです。
「僕は周りのカードゲーマーよりはイケてるぞ!」
下の中です。
「かっこいいって言われたことあるぞ!」
下の中です。
「女の子が目を合わせて話してくれたぞ!」
あなたは警察に行ってください。
下の中で落ち込むことはありません。むしろここから挽回の余地しかないと思いましょう。いいですか、エブリバディ フェイス 下の中。
ミーもユーも下の中です。分かりましたか?
カードショップにいるいっちばんブスな女。あれと釣り合うのが今のあなたの立ち位置です。
※赤ハイライトでの強調は筆者によるもの
曰く、カードショップにいるいっちばんブスな女。曰く、あれ。
ここにその女性を尊重する態度が見られるでしょうか。少なくとも私には全く見られません。
このnoteは一貫して、女性は男性を評価する側であるとして書かれます。まるで女性が天秤をもって男性を裁いてまわる怖い神様のように書かれます。言いすぎですかね。
ところが上記の引用部分ではこれが反転している。「ブスな女」というのは、その女性の恐らくは容姿を評価した上で出てくる言葉です。ここには男性から女性への評価がある。
しかしここまでを読んでいただけならば分かるように、これは決して反転ではない。むしろ本来の姿です。男性をアプローチする側、女性をされる側として固定した場合、本当に天秤をもって女性を裁いてまわっているのは、他ならぬ男性です。

その裁きにおいて有罪の判決を受けた女性は、評価する側に回ることはできません。それどころか「いっちばんブスな女」や「あれ」と呼ばれて侮辱されます。あのnoteの中では。
もしかしたら「そのブスな女とカードゲーマーは釣り合うと書かれているんだから、侮辱しているとは言えないのではないか」という反論があるかもしれません。確かに女性を下に見るというよりは、自らと同じであると見なす態度ではあると思います。しかしこのnoteは、そもそもカードゲーマー男性を自虐も含みながら「常識のないヤバい人」として侮辱しています。それと「釣り合う」ということは、やはりその女性を、侮辱される自分と同等の侮辱を受ける存在として見ていることは揺らがないと思います。
そしてその裁きをクリアした女性だけを指して「女性が」と連呼する。ですがその内実は決して女性一般ではありません。「あれ」や「いっちばんブスな女」を除外したうえでの女性です。そうして一部の女性だけを対象として書かれているのに、まるで全ての女性に共通することであるように書くのは、「あれ」や「いっちばんブスな女」を除外していることに無自覚な態度です。彼女らも全く変わらず尊重されるべき女性であるのに。
「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」において、女性はずいぶんと厳しい存在として想定されているように見えます。お風呂や歯磨きはともかく、何を提供できるかだとか、自分のスペックに0.7をかけるだとか、そこまでへりくだる必要ってあるんだろうか?と、恋愛未経験のわたしなんかは思ってしまいます。スペックなんてありのままで良いんじゃないでしょうか。ただ鼻につくような言い方をしなければ良いだけなんじゃないかなと思います。
そうして厳しさに晒される(と想定される)のは、何よりも自分自身が厳しい目で女性を見ているからではないでしょうか。なぜなら常識の有無を判断しそれに基づいて評価する者は、当の評価する者の側もその常識を持っていることが自然に求められるだろうからです。つまり「この人は常識を持った人か」という判断を下す側にも、やはり常識を持っていることが自然に求められる。
ならば「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」において、女性がアプローチしてくる男性の常識を評価する存在だとされるのは、何より先に、まずアプローチする男性側から女性に常識を求めていることの裏返しに思えます。だってその女性を評価する側として選んだのは、アプローチした男性です。その男性の側の常識。それを判断して評価するだけの常識を持った女性を、アアプローチした男性は選んでいるのです。
そうして恣意的に選んだ女性だけを指しているのに、それがさも女性全体であるかのように言うのは、選ばれなかった女性を女性とは見なさない態度ではないでしょうか。
ではなぜその女性は選ばれないのか。私の考えを言えば、美しくないからです。
スタイルがいいこと、メイクしていること、髪の毛以外の毛が無いこと、その髪に艶があること、服装に気を使っていること、無臭であること…noteの言葉を借りれば「崩れ」ていないこと。あのnoteは種々の美を女性に常識として求めてはいないでしょうか。
もちろんこれは私の勝手な解釈です。しかし「ブスな女」という書き方や、外見を何よりの優先事項とするnoteが、女性にもそれを求めていることは自然と類推できるように思います。
そうだとするならば、「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」が美しさ3を常識とし、それを満たしたものだけを女性として扱い、そうでないものを「ブスな女」や「あれ」と呼称し侮辱するならば、こんなにも女性に重圧をかけることはないと思います。美という常識を持たない女性を女性と見なさない態度だからです。それはカードショップを訪れる女性に「美しくあれ」という重圧をかける。アプローチされるかどうかなんてどうでもよかったとしても「ブスな女」とされることは誰だってイヤなはずです。その意味で「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」は、守ると宣言しているはずの当の女性に、むしろ加害しているとすら言えないでしょうか。
「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」には、内面も重要だと書かれています。しかし本当に改善すべき内面は、自分の基準を満たさなかった女性を「ブスな女」や「あれ」と呼んで侮辱するその内面ではないのか。それこそが女性からもっとも嫌悪される態度ではないのか。
何より私が危惧するのは、ここまで書き連ねたことを指摘されないまま、あるいは指摘されても「冗談だから」だとか言われて無視されたまま、あのnoteが「名文」として賞賛されている現状です。加害者を減らし、被害を減らすことを目的とするnoteが、残酷に加害している可能性。これを話し合わないまま、賞賛だけで終わらせて良いのでしょうか?
終わりに…人間なら持っていて当然のものなんて、たぶん無いよね
長くなりました。このブログの記事はいつもそうです。
ここまでを書いて改めて思うのは「持っていて当然の常識なんてあるんだろうか?」ということです。
人は誰もが違うルートを通っていますから、その過程で身に着ける「常識」なんて、むしろ異ならない方がおかしい。もちろん人は人とふれあって生きることが多いですから、その間で共有される圧倒的多数派の意見みたいなものは生まれます。しかしそれを「持っていて当然、持っていないとヤバい知識」とまで、簡単に言っていいのなと思います。それは本来優劣などないはずのルートの違いを考えず、相手を劣った人と見なす行為に思えています。
もちろん、女性…というか人間には誰でも、嫌な人からのアプローチを断る権利があります。だから「この人はちょっとな」と思ったら、きっぱり断っていいし、断ったのに執拗にアプローチを受けるなら、それは被害と言っていいと思います。店員さんに対応を求めた方が良いし、アプローチする側もそのような行為は慎まなくてはいけない。
私が言いたいのは、常識なんてないからみんな愛して受け止めろ!ということではなく、その人を「持っていて当然の知識を持っていない人」として侮辱するのはやめませんか、ということです。
さてここまでさんざん書いてきましたが、何度か述べているように私は「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」の試み自体は大変に価値と意義のあるものだと思います。何のかんの言っても最大公約数的にウケる男性像というのはあるわけですし、一般的に嫌がられる行為だってあります。そういうものは全部「常識だから」とされて、キチンと説明されていないことが多い。そこに問題意識を持ち、自らの言葉でもって説明しようというあのnoteの試みは、とても重要だと思います。後編があるとのことですから、公開を私も楽しみにしています。
最後に、冒頭でも述べた通り、私は恋愛未経験の男です。「女性カードゲームプレイヤーへの突撃マニュアル」では、気軽にサシでご飯に行けて、仕事や恋愛のプライベートな相談をしてくれて、世間的にみてもちゃんと魅力的な女性と繋がりのない男性は「変」だそうです。ならば私はメチャクチャ変です。世間的に見てもちゃんと魅力的な女性ってのがどんな女性なのかピンときませんが、女性とサシでご飯に行ったこと自体一度もありませんから。
だからこの記事への反論も多々あると思います。私がいう「女性ってこうなんじゃない」というのは、全部妄想です。それゆえ穴だらけの論かもしれませんが、問うべきと思ったことを問う内容にできたと思っています。

